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「何もない部屋ね……」
朱夏は、床に撒き散らされた洋服を避けながら、薄暗い蛍光灯の下に足を踏み入れた。
朱夏ら特務二課が、初めて手にした死体以外の手掛かり。女帝から得た情報をもとに辿り着いたのは、殺人現場とは全く別の区にある、古びたアパートであった。
だが、まやもや一足遅かったらしい。
中身を抜き落とされ空っぽになった棚、開けっ放しの引き出し…… ようやく見つけ出したその場所には、すでに家捜しを受けた跡があった。
踏み荒らされた雑然とした空気。その中で、かえって、生活感の乏しさが浮かび上がる。
一人分しかないコップに皿。それだけが荒らされぬままの片付けられた姿で、帰らぬ主人を待ちわびていた。
「アパートごと店が借り上げてるようで……」
新たに入った情報が次々に朱夏に告げられていく。
女の働いていた店は、水商売に風俗と、かなり手広く仕事をしているらしい。このアパートも、いくつかある女子寮の一つだという。
「電話やネットの履歴は当たってくれた?」
「それが、どちらも契約している様子がないんです。店の方から連絡用の携帯を持たされていたようなんですが、通話履歴を当たったところ、店との通話以外で使用した形跡は見あたりませんでした」
普通に生活を送っていれば出るはずの郵便物や明細書の類…… この部屋には、主の素性を確かめ得る何物も存在しない。
「メモの類も何もかもなし……か。持ち去られた後か、はじめから存在しないのか……」
おそらくその両方なのだろう……と、朱夏は思った。
室内には、生活に必要な最低限の物しか見あたらない。明らかに彼女は何かに怯え、備えていた。足跡を消し去り、いつでも旅立てるように……。
その上、忍び込んだ犯人は、プロに違いなかった。なりふり構わぬ荒らし方に見えるが、追跡出来るような痕跡は何一つ残していない。
そんな状況下で、被害者の顔写真だけが、この世との関わりを辛うじて繋ぎ止めていた。
血糊を拭いて修正を施した青白い顔を、アパートの女達は「ユーリちゃん」と呼んだ。
この世界に染まらない大人しい女だったという。言葉通り、息を潜め、隠れるように暮らしていたらしい。
そんな被害者の顔を、出入りの業者が覚えていたのは、偶然に他ならない。
早朝、発見された女の遺体―― それを遠巻きに見つめる野次馬達の中に、女の店へ酒類を卸している配達員がいたのだという。一連の殺人は報道規制されている。一般人の目に触れる唯一の機会だったといえる。
「あのマルは、なんなのかしら」
壁に掛かったカレンダーの日付に、力強く印が付けられている。この部屋の中、たった一つ確かなもののように、朱夏の目を引いた。
「明日……ですね。店のほうに特別の行事はないようですが」
その時、アパート内の聞き込みに回っていた小林が、他の捜査員を押しのけながら走り寄ってきた。
「主査! 隣室の女性の証言ですが、やはり被害者は部屋にいるときもイヤリングをつけていたようです」
持ち去られずに残ったわずかばかりのアクセサリー。申し訳程度の質素な指輪と首飾りしか持たぬ飾り気のない女が、イヤリングにだけは気を遣い、大振りの華やかな物を好んで身に付けていたという。
「そんなに変わってますか? このイヤリング……」
小林が、色とりどりのガラス玉がちりばめられた大きなおはじきのようなイヤリングを、不思議そうに覗き込む。
「いいえ、単に趣味が違うと思っただけよ。洋服や、この部屋にある他のものと……。だけど、常に着けていたとなると、やはり耳を隠すためなのかしら? でも、これじゃあ、かえって人目を惹くわよね……」
連続殺人の被害者達の遺体は一様に、耳の一部または全てを切り取られている。
「あの、二段構えなんじゃ? 被害者ですが、なんでも普段から、こう……髪が耳に掛かるような髪型だったそうなんです」
小林は顔の横で指を動かし、おかっぱのような髪型を描いてみせた。
「まずは髪の毛で隠しておいて、仮に見えたとしても、派手なイヤリングに目が行くように……。隣の女性なんですけど、結構お節介と言うかお喋りでして。せっかくのイヤリングだし髪を上げてみたら……なんてアドバイスをしていたそうなんです。けど、被害者は恥ずかしいからと言って取りあわなかったようで……」
「そう……」朱夏は頭の中を整理するように、しばしの間、長い睫毛を伏せた。
これまで、犯行時に耳を切り取ることを儀式的な色合いと見てきたが、耳そのものに何か手掛かりが残されていたのかもしれない。
「他には何か言ってた?」
朱夏が尋ねると、小林はわずかに興奮したようにうなずいた。
「ええ。殺害の二日前、被害者が地図を借りに来たと。コピーをとって、すぐに返しに来たそうですが……」
「目的は?」
「知人に会う。それと、久しぶりに星が見られる…… そう言ったそうです」
「星……? どこの地図なの?」
「都内です。これを」
差し出された冊子は東亰都の観光ガイドであった。そこら中に、薬剤によって処理された指紋の痕跡がくっきりと浮かび上がっている。
「指紋の照合はこれからですが、開いたのはおそらくこのページです。ここを確認してから借りていったそうですから」
「こんな街中で。プラネタリウムかしら?」
「そういった施設がないか、今、確認させています」
情報収集力で夜の女達に遅れをとったことが、捜査員達の自尊心を傷つけたのか……。いつにも増す手回しの速さである。
そして数分後、ささやかな朗報が現場に届いた。
「ありました! プラネタリウム。かなり古い建物のようですが。この区域ではここだけです」
朱夏の鋭い眼光が、ようやく安堵の色に和んだ。
*
翌日――
生きていれば、女が向かうはずだった場所。そう信じて、朱夏達はプラネタリウムに網を張った。
結局、自宅からは被害者の身元を証明するものは何も見つからず、隣室の女が聞いたという「知人に会う」という言葉と、カレンダーに残された力強い丸印に、一縷の望みを託すことになった。
女の、恐らくは本当の名を知る人物が現れることを祈り、朱夏は待つ。
性別、年齢―― 相手の情報は何一つない。待ち合わせ場所がここだという確証も、今日だという証左もない。その待ち人こそが犯人……という可能性すら否めないのである。
だが、今日ここで巡り会えなければ、次の機会はない……。
直感が、そう告げていた。
閑静な通りに面して建つ古びた科学館の中に、そのプラネタリウムはあった。
土日であれば、親子連れやカップルでそこそこ賑わうというが、今日は平日の為、客足は多くない。上映は、日中に三回と夜に一回。すでに今日二回目の上映が終わったが、客は近隣の幼稚園児数十人とその引率者のみであった。
間もなく三回目の上映時間が始まろうとしているが、科学館全体を見渡しても、学校帰りの小学生をちらほら目にするだけである。
こうなると夜の上映に望みを託すほかない……。
そう朱夏が肚をくくった時であった。清掃員や科学館の職員に扮して張り込んでいた捜査員達の間に、鋭い緊張が走った。
館の内外に仕掛けたカメラの映像を監視し、捜査員からの報告を統括している地下駐車場の指揮車から、各自のイヤホンに向け、待ちに待った指示が飛んだのである。
すぐさま、九名の捜査員が、あらかじめ決めておいたフォーメーションで、館の内外の配置に付いた。
するとほどなく、焦げ茶色のブレザーにワイシャツ、みすぼらしいなりにも精一杯の身繕いをした初老の男が、一階のエントランスに姿を現した。
指揮車の見立てどおり、その男は、他の客とは明らかに異質であった。
館内を懐かしげに見渡したまま、しばらく立ち尽くし、孫ほどの子供達に目を止めると、やがてうつむき、重く息をつく。
(間違いない……)
朱夏は心中でうなずいた。被害者の「オトコ」という風ではないが、特別な相手には違いないだろう。しかし、それが何なのか、朱夏の慧眼をもってしても想像はつかなかった。
男は受付で入場券を買うと、まっすぐにプラネタリウムのある三階に向かった。
一人の客もいないプラネタリウムのドーム内で、男は出入り口近くの席へつくと、落ちつかなげに周囲に目を走らせている。
女を待っている、ただそれだけの様子ではない。
(やはり、この男も狙われている……?)
上映開始のブザーが鳴り、そのまま二十分が過ぎたが、挙動不審な男の様子に変化はなく、続いて誰かが現れる気配もない。
手はず通り、朱夏達は捜査関係者以外を館外に退避させると、その時を待った。一〇分後の上映終了直後、男が席を立つ直前に身柄を拘束する。
ところが、男は予想外の行動に出た。上映終了を待たずに立ち上がると、唐突にドームの外へと駆け出したのである。
もしかすると外で待っているのでは…… そんな様子で、男はドームの出入り口に面した廊下を見回している。
指揮車の指示を受け、清掃員に扮した捜査員が、何気ない様子で男に近づいた。
まず、清掃員が男の退路をふさいだ上で、別の捜査員が男に職務質問を掛ける手はずであった、が、異常なまでの過敏さで男は反応した。
目の端に科学館員に扮した捜査員を見るや、背後にいた清掃員姿の捜査員を突き飛ばし、大慌てで廊下の奥へと駆けていく。廊下の突き当たりを曲がると「関係者以外立ち入り禁止」の札が掛かっており、その奥には非常階段へと続く扉がある。
「捕まえろ!」
突き飛ばされた捜査員の怒号が響いた。
男の決死の形相に気圧されたのか、待機していた他の捜査員の反応が出遅れる。その上、男は館内の構造を熟知しているらしく、予想した逃走ルートを、ことごとく裏切っていく。
男は展示品の搬入通路を使い、館外に抜け出すと、追いすがる捜査員の鼻先をラグビー選手のようにすり抜け、科学館前の通りを横切ろうとした。
(やむをえないわね……)
いつからそこにいたのか…… 科学館の正面入り口には、朱夏の姿がある。
男の警戒を少しでも緩めるために、張りこみにあたる捜査員の数は、最低限に抑えられている。包囲に穴が生じることが解っていながら、そんな作戦が許可されるのも、すべて…… ここに朱夏がいるからである。
朱夏は軽く息を吐くと、命じるように、しなやかな指先を男へと向けた。
それと同時に、薄く朱夏の足下を染めていた影が、にわかに鮮やかさを増す。
命を吹き込まれたように、なめらかに浮かび上がる影……。
その姿は、あたかも黒い光沢をまとった一頭の獣であった。
もともと千変万化の影ではあるが、朱夏の影は見る者に生命の躍動をすら感じさせる。
―― 行きなさい ――
朱夏は、影を放った。
影は地をすべるように流れ、難なく、走る男の足を絡め捕った。
しかし、その瞬間であった。
短い叫びとともに、男の背から鮮かな血しぶきが吹き上がったのは。
「影使いよっ!」
襟元のマイクに向かい朱夏は叫んだ。
もんどり打って倒れ込む男を視界の端に置きながら、朱夏の意識は、男の背を裂いて飛び去った影を追っている。
敵…… 恐らくは連続殺人犯のお出ましである。
朱夏が動くのが、もう一秒遅ければ、男は確実に殺されていた。偶然とはいえ、朱夏の影に足を取られたことで、男は前のめりに倒れ、串刺しの危機を回避したのである。
しかし、敵の影は標的を外したことを悟ると、すぐさま向きを変え、今度こそ男を刺し貫くべく加速する。
(させない!)
本来、影使いは身を隠した上での攻撃、偵察にこそ、その本領を発揮する。影使い同士の戦いにおいて、居場所を相手に知られることは、死を意味するに近い。
だが、朱夏は構わず、影を放った。
男の上に、影を盾のごとく広げ、同時にもう一条、素早く地表に潜行させる。
朱夏の敵を捉える嗅覚は、すでに男を狙った影使いの居場所を突き止めていた。そして、恐らくは敵も……
影使い同士が正面を切って対峙した場合、その能力差こそが全てを分かつ。
影のスピード、防御力、それらは影使いの精神力を鏡の如く映し出す。小細工は要らない。速い方が勝つ。この極限の状態で、朱夏は笑みすら浮かべていた。
獲物の背後に潜行した朱夏の影が、跳んだ――。黒き豹と化して。
朱夏が勝利を確信したその時、信じがたいことが起こった。
影が…… 動かない……?
朱夏の放った美しき豹は、獲物を目前にして地に飲み込まれるように消えた。
そして同様に、敵の放った影も――
朱夏に向かって槍のように繰り出されようとした影は、一瞬の滞空時間の後、空中で溶けるように消え去った。
―― どうしたの! 行きなさいっ! ――
心に、指先に、力を込める朱夏。
ドクン…… と、恐怖が突き抜けていく。
(馬鹿……な…… 影が…… 出……ない?)
朱夏の思考が空白に占められようとした瞬間、
「確保っ!!」
力強い捜査員達の声が、朱夏を我に返らせた。
向かいの建物の陰で、二人の捜査員が、影使いの男を地に組み伏せている。
Tシャツにデニムというラフな格好の、二〇代そこそこの男である。男は影を使えぬ自分が信じられないらしく、両腕を捻じり上げられたまま、まだ必死で影を呼んでいる。
(あいつも……なの?)
突然、術師の制御を離れ、影が……消えた?
朱夏は、慄くように足元を見つめた。
影はある。消えてはいない。だが、どんなに念じても動かせない。
(還ったというの? あるべき場所へ?)
朱夏の影、建物の影、そして、うっすらと地を覆う雲の影―― 全てが、しんとした静けさを抱きながら、くっきりと浮かび上がり、なおかつ、やわらかに溶け合っている。
すぐそこに、迫るように、包むように……。
(な……んなの……)
吸い込まれそうな感覚に朱夏が激しく首を振ったとき、ふいに、止まっていた時が動き出すような奇妙な感じを覚えた。
(使える……)
影が自分の支配下に戻ったことがわかる。
朱夏はすぐさま、捕らえられた影使いに向かって、再び影を放った。
「眠らせてから連れて行きなさい」
体の自由を奪われていても影を使うことに支障はない。朱夏は己の影で、男の影を封じるように取り押さえた。
そして、睡眠剤の注入を見届けると、背に血を滲ませたままの初老の男の方へと踵を返した。
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