第一章  朱夏《しゅか》

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     4 「知っているわね?」  科学館の地下駐車場に停められた小型バスのような指揮車。その中で血止めの応急処置を受ける男に、朱夏はユーリと呼ばれた被害者の写真を差し出した。  男は震える手で、むしるように写真を奪い取ると、しばらくの沈黙の後、 「ほなみ君……」そう呟いて、がっくりと項垂れた。 「狙われているのは、何故?」  朱夏の問いに顔を上げる男。その目に怒りが露わとなる。 「連続殺人の被害者達、彼らの繋がりは何? 教えて。私達なら助けられる」  とたん、男は狂ったように笑い始めた。 「何が出来る! 気付かないのか、お前も奴らの仲間なんだよ!」  朱夏は息を呑んだ。男の目の輝きは、正常な思考の持ち主であることを示している。  次の言葉を紡ごうと、朱夏が男を見据えたその時、どこかで鈍い悲鳴が上がった。  朱夏がすぐさま車から飛び出すと、先行して警察に向かおうとしていた覆面パトカーの横に、血まみれで倒れ伏す捜査員の姿が見えた。  そして、出口へと向かって走り去る、影使いの後ろ姿も――  白い朱夏の頬に、かっと血が上った。  朱夏の怒りに染められたように、すさまじい速さで飛び出す影。  その刹那――   前方から、一陣の風が、朱夏を掠めた。  激しい風圧が、立ち尽くす朱夏の頬を叩く。 (馬鹿なっ……)  時の流れが止まったかのようであった。  見ることもかなわぬ速度で、それ(・・)は、まっすぐに背後へと飛び去った。  だが…… 朱夏には解っていた。  その正体も、そして、それが何を意味するのかも。  朱夏には目もくれず、過ぎ去ったものは―― 影。  神速(しんそく)の影。  これほどまでに研ぎ澄まされた影を、朱夏は知らない。  そして、朱夏の護るはずだった男は、恐らく、もう……。  振り返る朱夏。駆け巡るのは、絶望の予感。  逸る心とは裏腹に、時はコマ送りのような緩やかさで、無情に現実を見せつけた。  飛びこんだ車内、差し伸べた朱夏の手の向こう――  影に胸を裂かれ、ゆっくりと崩れ落ちる…… 男。  朱夏は全身に返り血を浴びながら、為すすべもなく、ただ見つめた。  張り裂けんばかりの怒りが、後悔が、(くずお)れそうなほどの虚脱感とともに渦を巻く。絶望的な心境と状況。そんな中でも、頭のどこかは、恐ろしいほどの冷静さで疑問の答えを探している。  男を切り裂くや飛び去った影。捜査員を傷つけ逃げ去ったTシャツにデニム姿の影使いのものではない。再び捕らえようと、朱夏自身が、直前までその後ろ姿に狙いを定めていたのだから間違いない。  だとすると、残る答えは一つ。敵は、影使いは、もう一人いたのである。  連続殺人は組織的(・・・)な犯行。わかっていた。わかっていたのに……!  朱夏は、すぐさま車から飛び出しドアを閉めると、もう助からないであろう男を中に閉じこめた。そして、指揮車を背後に庇うように立ち、心を集中して、四方に影を放った。  同じ()られるのであれば、最後まで、なすべきことを全うしたい。  助ける…… 自分は確かに、男にそう言ったのだ。  しかし、そんな朱夏の決意を玩ぶかのように、見えない敵に動く気配はない。  こんなことは初めてであった。  いつだって、心を研ぎ澄ませば、敵の息づかいを感じた。  敵意を、殺意を…… その先を辿れば、どんなに幽かでも倒すべき相手が見えた。  だが、今回の相手は違う。敵意でも殺意でもない。ただ「自分はここにいる」そのことを告げるためだけに、目に見えぬ圧力を朱夏に送り続けている。そして、これほどの気を茫洋と宙に散らせながら、居場所を探ることすら許さない。 「全員、離れて! バラバラの方角へ逃げて!」  朱夏は、捜査員達に大声で命じた。  敵が狙うなら、まずは影使い(じぶん)からである。他の者に影を使い、その間に朱夏に影の出所を追われるような愚は冒さないだろう。  朱夏がここで息をしている限り、部下達に危険は及ばない。だが、それも一時の時間稼ぎにしかならない。何より、あの神速の影を見切れる気がしない。  だが、運良く、一撃目で絶命さえしなければ……。腕が飛ぼうが、足が飛ぼうが、敵の居所をあぶり出す自信はあった。  並みの影使いであれば、居所が割れたその時点で、一旦、退く可能性は高い。問題は、敵のレベルが「並」どころではないことだが、それでも、今はどんな可能性にも縋るより他はなかった。  朱夏は、半径三〇メートル圏内に敵の姿がないことを確認すると、今度は、静かに高めた気を影に合わせ、一気に周囲に向けて放った。潜水艦の音響索敵(ソナー)のように、微細な粒子と化して広範囲に散らばった影達が、うまくすれば敵の居所を嗅ぎつけるかもしれない。  ただし、この間、朱夏は完全に無防備な、攻撃も防御もままならぬ状態となる。影使いとしては完全に失格の、捨て身の手段である。  ところが、そんな悲愴な賭けもむなしく、叩き付けた(かげ)の向こう、敵は水が退くように、唐突にその存在を消した。  ぼんやりと、周囲を仰ぎ見る朱夏。  はっと我に返るや、鋭い声で安否を尋ねながら指揮車へ飛びこんでいく。  その姿を見て、身を潜めていた捜査員達が、倒れた捜査員と男の元に駆け戻る。 (護りきれなかった……)  朱夏は茫然とした様子で、虫の息の男を見下ろした。  しかし、男の瞳はまだ死んではいない。 「ひか……り……」  ふり絞るような男の声に朱夏が我に返ると、男は朱夏を見つめ、微かに笑うように事切れた。 「待って!」  動かない男を揺さぶる朱夏に、かたわらの捜査員が、痛々しげに首を振る。  朱夏は歯噛みした。 (この笑みは……何? 託したの……私に?)  数秒後、朱夏の声には、いつもの冷静な響きが戻っていた。 「追ってはダメ。怪我人が増えるだけよ」 「しかし!」 「奴を捕らえるには用意がいるわ」  薬を打たれても、なお逃げ切った影使い。間違いなく、かなりの使い手である。  しかし、朱夏の実力ならば問題なく捕らえられる。捜査員達はそう信じているだけに、朱夏の言葉に悔しそうに顔を歪めた。  それはそうである。やっと掴もうとした事件への糸口だけでなく、大切な捜査員(なかま)までが傷つけられたのである。  出血の量からして、倒れ臥した二人が助かる確率は低い……。  朱夏は、状況からそう断じている自分に、ぞっとした。 「影使いはもう一人いるわ。これ以上、手出しする気はないようだけど、油断しないで。証拠隠滅を図るかも知れないわ、男の周囲に光射器(ライト)を設置して! 救援と救急の要請は済んだ? 念のため、別の影使いの派遣も要請して! あと、二人はどうなの!」  朱夏は思いつく限りの指示を出しながら、傷ついた捜査員の元に駆け寄った。  救護に当たっている者を邪魔せぬように、朱夏が覗き込むと、肩口を大きく裂かれた捜査員が喘ぐように朱夏を呼んだ。 「主……査……。済み……ばせ……」 「小林……君」  朱夏は傍らに膝を着き、小林の頬に触れた。しかし、それ以上声が出ない。なんとか血を止めようと懸命の処置が行われてはいるが、希望の持てる状態とは思えない。  もう一人の横たわった捜査員も頸を貫かれ、とうに帰らぬ人となっている。 「泣が……だいで……下さ……い。死にばせ……んから……」  血走った目で笑う小林に言われ、朱夏は初めて、溢れている涙に気が付いた。  「もう話すな」「大丈夫だ」と、小林に言ってやりたいが、歯を食いしばるのに精一杯で声が出ない。口を開いたら最後、胸に突き上げてくる想いを押し止められない気がする。  朱夏は、小林に力強く肯いて見せると、次に、遺体となったもう一人の捜査員の傍らへ移り、その手を固く握りしめた。 (私の…… せい……)  自分がもっと強ければ。力があれば……!  朱夏は、震える手を、強く、地に叩き付ける。 「主査。課長から無線です」  朱夏が指揮車に戻って無線に出ると、特務二課の長である砺波(となみ)の強張った声が流れた。 「大体は聞いた。だが、君が『影使い』を要請するとは? 事情を説明してくれ」 「念のためです。敵は物質系(マテリア)。正確で速い攻撃を仕掛けてきます。ですが、周囲百メートル、いえ、二百メートル圏内にも、敵の本体を発見できませんでした」  無線の向こうで、課長が絶句するのが分かった。  影使いには大きく分けて二つのタイプがいる。  影を通して物を見、音を聞くことの出来るノーマルと呼ばれるタイプ。  通常「影使い」と言えば、このノーマルを指す。  ファイバースコープのように、己の影と接する他の影に意識の先端を延ばすことが出来、木陰や屋根の隙間といった暗がりを侵入経路として、室内や特定の人物を監視・盗聴する諜報任務を主として行う。  朱夏のように、影自体を具現化し、攻撃・防御といった物理的な行動を行う物質系(マテリア)と呼ばれるタイプは、数パーセントの例外に属していた。  ただし、具現化した影は操者から離れるほどにその精度・堅牢度が落ちるため、手練れのノーマルが五百メートル近く影を延ばすのに対し、マテリアの影繰りは長くても五十メートルが限度と言われている。……はずであったが。 「敵の能力は明らかに私より上です。刺し違えるのは無理ですが、即死さえ避けられれば、しばらくの間、攻撃の手を……敵の影を絡め取ることは出来るかも知れません。その間に、影を伝い、敵の居所を突き止める者が必要です。捜査員の保護の為にも、物質系(マテリア)が欲しいところですが……」 「却下だ。君の立場はあくまで我々の助言者だ。捜査員達も君に守られようとは思っていない」 「しかし!」 「増員の要請はしてみる。が、期待しないで欲しい。君を得るのにも、かなりの時間を要した。上は未だに影使い(きみら)を出し渋る。しかし、遠距離型のマテリアとは……。捜査態勢だけじゃない、国の保安対策(セキュリティ)も根本から動く……」  課長の声に重い息が混じった。  影使いに対する防御法は、ここ十年ほどさしたる変化がない。  影使いの影は、物質を透過することが出来ない。その為、ノーマルの侵入は、通風口などの外部からの進入経路に光射器(ライト)を置くなど、潜むのに必要な陰を途切れさせてしまうことで防げた。  マテリアは、影から操者までの距離が、通常二、三〇メートルであるため、ノーマルと異なり居所を掴みやすく、「距離」という簡易な防壁を作ることが出来る。  だが、ノーマル並みの遠隔操作を行うマテリアが現れたとなると、話は違ってくる。 「対策を怠ってきたツケです。規外(きがい)の技術が上がってきているのは分かっていたことです。これほどとは、考えもしませんでしたが……」  「規外(きがい)」とは裏世界の影使い達を指す。彼らを、国の管理下にある影使いに対して「規格の外」と呼称したことによる。  朱夏は以前から、裏世界に根を張る規外を脅威と感じ、警鐘を鳴らしてきた。だが、政府の対応は常に遅きに失し、内閣直下に対策班が出来たのさえ、つい最近のことである。  何より異常なのは、一番前線に立つ地元警官達に影使いの存在が知らされていないことであった。  裏世界の者達にとって、影使いは既に超常ではなく日常の存在となっている。にも関わらず、警察内で影使いの存在を知る者は、上層部のごく一部の者達だけなのである。  しかし、もはや隠し続けてはおれまい。昨今の影使いによる犯罪は、異常とも思える変容を見せている。  ほんの数年前までは、盗聴などの間諜(スパイ)業務がせいぜいであった規外達が、今や物理的攻撃性を持った影を獲得している。まさしく「質」が変わったのである。 (何が起こっているのか……)  朱夏の最大の懸念はここにあった。  今も自分達をどこからか見ているだろう、第二の影使い――  軽々に「新種」などと断じたくはないが……。  朱夏は、用心深く周囲に影を散らし索敵を続けているが、残り香のように幽かに残った気配さえ、全て掴み所なくはぐらかされ、それ以上先を辿ることが出来ない。 (まさか……)  ふいに、朱夏の背に悪寒が走った。 (影が使えなくなったのも、こいつの仕業……?)  路上での戦いの最中、一瞬だが、影は朱夏の制御を離れ、朱夏は影を失った。  自分が「影使い」でなくなる瞬間。  無に還っていく恐怖……  思い出すほどに、圧倒的な敗北感が、朱夏を打ちのめした。
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