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ただ、釣れていない空のバケツをみるとさぞ物悲しい肴であったかがわかる。私は、ゆっくりとタバコを吸い終えると、釣れますか、と聞いてみた。釣りびとは、釣れんな、とそっけなく言う。やっぱりね。こんな濁った川には魚はいないのだ。釣りびとは、上を見上げる。帽子の影が消え、彼のシワだらけの顔が見える。 あんた、ここのひとか、と私に問いかけて来る。私は違うと首を振る。釣りびとは、どこか遠くを見て、昔は、ここもきれいな時があったんだ。知っとるか、と問う。私は、知りませんでした。そんなときがあったんですね、と返す。あんた、この川の上流にいったことあるか、と聞いてくる。私は、無いと答える。そうすると、釣りびとは語り始めた。この川の上流はお城の堀になっとる。ほら、この川の名前がほうだろ。そう言って私を見る。確かに。この川はそのままの名前だ。その堀にもな、上流から水を引いてた時があってな。ほら、流れとる川の水、ありゃきれいやろ。だもんで、昔は、魚がつれたんよ、と釣りびとは昔を懐かしんでいた。それにな、昔、上流の工事の時に、こっちの川に水を流して、そん時はな、いろんな魚がおってな、と言った。私は、話が長くなりそうだと思っていると、それを察したのか、なあ、そこで飲みながら話さんか、と釣り人は言う。私は、この後の予定がなかったので、いいですよ、と言った。釣りびとは、ニカッと笑うと、テキパキと荷物を片付け始める。釣り糸を巻き上げ、釣り竿をたたむ。水を川に捨て、空き缶をバケツに入れる。慣れたものだ。
そうして、釣り人は橋の袂から私のいる橋の上にまで来る。陽は傾いている。ほいだら、そこの店でええか、と釣りびとは暖簾のかかった店を顎で指す。私は、近くの飲み屋を知らなかったので、いいですよ、と返した。続けて、大物が釣れたしな、と言う。私は、釣りびとのバケツを見る。空き缶がある。魚はいない。釣りびとを見返すと、私を見て笑顔であった。私が見返すと、釣り人は顎で私を示す。まんまと私は釣られたと気がつく。すでに、飲み屋まで決まり、返しが食い込んでる。そして、目の前の釣りびとにとっての肴は私だと気がつく。残念ながら、長い夜になりそうだ。釣りびとは笑顔で飲み屋の暖簾をぐぐる。私も暖簾をくぐった。
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