123人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
序論
ずっと、幸せな毎日を送ってきた。
「―――おはよう、圭さん」
僕は毎朝、彼女のその声で目を覚ます。
8月中旬、日曜日。
「·······ん」
寝ぼけ眼で目をこすり、昨夜ベット脇のローテーブルに置いたはずの眼鏡を右手だけで探索した。
「圭さん、眼鏡、また下に落ちてるよ」
薄暗い寝室のなかに、隣で布団にくるまっている彼女が、密やかに笑う気配を感じた。
ああ。
言われたとおり右手をベット下に伸ばすと、何か硬いものに指があたった。
それを拾って、かける。
のろのろと上体を起こす。
「····あった。ありがとう、未可子」
「ふふっ、どういたしまして」
寝起きはいいほうじゃない。
何時だろう、と思いながら未可子のほうを見ると、真夏の強い日射しが、カーテンの隙間からベッドに横たわる彼女の上に真っ直ぐ差し込んでいた。
未可子のほうへ手を伸ばすと、なぜか、えらくふんわりした毛布の感触に指が触れる。
僕はほんの少しだけ顔をしかめた。
クーラーの温度が効きすぎたせいで、寒くなったまた毛布を持ち出したのだろう。
悪いことをしたな、と思う。
気にしないでいいと言っているのに、気使いの未可子は、僕の理想の室温にあわせようとして、いつも無理している。
「ねぇ、今日久しぶりのお休みでしょ。朝ごはん、パン屋さんまで買いに行かない?」
「―――ああ。いいね」
たぶんまだ僕の頭はまだ寝惚けていて、それから正式に起動し始めるまでには、まだ当分かかるのだった。
未可子と出逢ったのは、7年前に開かれたとある街コンだった。
駅前にあるチェーン店の個室。
たぶん、参加者は全部で40人くらいだった。
僕は当時22歳。
男ってそのくらいの年齢だと、まだまだ子供なんだと思う。
とりあえず結婚とか恋愛とか、全く興味が無かった。
先輩に強制的に連れられていっただけで、参加費も先輩持ちだし、適当にアルコールでも飲んで、先輩のアシストをすればいいのかな、と。
先輩にはお世話になっていたから断れなかったけど、心の底から時間の無駄だと思っていた。
「こんばんは。私、未可子っていいます。」
最後のグループで、僕の前に座ったのが未可子だった。
えらく丁寧に挨拶する人だなと思った。
後から聞いたら、どうも街コン攻略法のマニュアルに、そんなことが書いてあったらしい。
今の時代、世の中には、どんなものにでもマニュアルがあるのだ。
そして、未可子という女性は、いつも本当に真面目で、何か新しいことに挑戦しようとするときは、きちんと下調べをするタイプだった。
“だって、私あの時までコンパとか行ったことなんて無かったのよ。街コンなんて相手ありきでしょ?礼儀作法を知らなくて、失礼なことしちゃったら、申し訳ないじゃない“
白いシンプルなブラウス。
丸い顔に、大きな目。
滝廉太郎みたいな分厚い眼鏡。
「こんばんわ」
僕もにこっと笑って、あたりさわりのない程度に挨拶をした。
早く帰りたかった。
だけど、そんな態度を露骨に出せば隣で楽しそうに喋っている先輩に迷惑がかかる。
何を話そうか。
適当に趣味の話しでもするか。
カフェっていいですよねぇ。
あ、料理得意なんですか。
いいなぁ、僕、コンビニばっかりなんですよ。
机の上に並べられたプロフィールシートを見ながら、そんなことを考えていた。
すると、未可子が突然こう言った。
「そのブラックホールのTシャツ、私も持ってます」
未可子はそうやって時々、僕の世界を根底からひっくり返そうとしてきた。
最初のコメントを投稿しよう!