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考察と結論
「··················え?」
僕は、未可子の言葉に、何度も目をぱちくりさせて、言葉を失ってしまった。
未可子は悲痛な面持ちで、必死に弁解の言葉を並べようと頑張っている。
「圭さん。あなたには、怒る権利があるわ。でも、これだけは聞いて。作家活動で得た収入は全て、夫婦の老後資金にするつもりで、ちゃんと貯金してる。全然使ってないし、なんなら結構貯まってるから、いますぐにでも預金通帳を一緒に確認してもらっても―――」
「待って!」
僕は慌てて未可子を制した。
話が突然、全く違う方向に転がり始めている。
「待って。―――待って。どういうこと?えっと、未可子が、この本を書いたの?」
「·····そうよ」
「待って。いつ?」
「いつ、って····これは去年の夏から秋くらいに書いてた」
「その····作家的なことをし始めたのは、いつ?」
未可子は少し、言葉に詰まった。
正直に話すべきかどうか、迷っているような様子だった。
ややあって、観念したような面持ちで、こう言った。
「あなたと付き合うよりも、もっとずっとずっと前。私は、小さい頃から小説を書くことが大好きだったの」
きっぱりとした口調。
僕は呆然とたずね返した。
「本当に····?」
「そうよ。私の部屋のなかは、そっちの仕事に関する書類で溢れてるわ」
「あ········」
それでようやく、ひとつの謎がとけた。
だから、ずっと結婚してからも、部屋には勝手に入らないで欲しい、としきりに言ってきたのか。
「浮気じゃ·····無かったのか。他に好きな男が、ずっといたんだと、僕は」
「ちょっと!私には圭さん以外に好きな人なんか、いません!」
勢いで未可子は否定し、一瞬のち自分が言った言葉のストレートさに気付いて、真っ赤な顔になった。
「未可子·······」
それを見た僕の顔も、たぶんゆでダコと競るぐらいには赤くなっていた。
良い年したアラサーの夫婦が、何を。
僕は、咳払いして、話を本題に戻す。
「公務員って副業禁止なんじゃないのか?仕事は、まさかと思うけど、辞めてたの?」
「執筆はオッケーなの。ただし、上司の許可をとって、収入が発生したらきちんと申告することが条件だけど」
彼女は間違いなく本当のことを話していた。
それは、その顔を見れば一目瞭然だった。
でも。
―――――だったら。
僕は聞かずにはいられなかった。
「何で、僕に教えてくれなかったの?」
ようやく顔色が戻った未可子は、鼻をすする。
そして、ちょっと視線をずらすと、珍しくぶっきらぼうにこう言った。
「――だって!恥ずかしいじゃない!····小説を書いて、自分じゃない自分になりきって、実際には発生していないような虚構の出来事を文章にするのが好きで堪らないなんて!」
「········何言って」
「もう!圭さん。意地悪よね····」
そしていたたまれないような顔をした彼女はおもむろに立ち上がって僕から離れた。
そのままテーブルに歩み寄っていくと、並べっぱなしのシャンパングラスの中身を、一気に呷った。
トン、とグラスをテーブルの上に置く。
「·····だけど、私は、本当に小説を書くことが好きなの。書いてる時間が、とても幸せなの。わかる? だから、何があっても、あなたにだけは、絶対に言えないって、最初から決めてた―――」
僕は何も言えずに、ただ彼女の声に呆然と耳を傾けている。
「だって、私が小説を書いていることをあなたに言って。万が一否定されてしまったら? そうしたら、取り返しがつかないことになるでしょ! 小説なんか、人の好みによって、好き嫌い分かれちゃうし。もし、そうなったら、あなたのことも、小説を書く純粋な幸せも、いっぺんに両方失っちゃうじゃない······っ」
僕の声も震えた。
「·········未可子」
どうしよう。
また、彼女が、泣きそうな顔になっている。
ようやく僕の目から鱗が落ちていった。
未可子がずっと隠していたのは、彼女にとって、本当に大切なもの、一番大切にしてきたものだったのだ。
僕は彼女と視線を合わせたまま、その場に立ち上がる。
ずっと我慢させていたのは、僕。
「未可子。―――未可子。僕······、本当に、僕こそ、ごめん」
「あなたと結婚した頃は、ずっとスマホを使って、ネットの投稿サイトで色々書いてた。それから、5年くらい前に正式にデビューが決まって、本格的に仕事を受けるようになった。だから、あなたと離れて単身で生活してたときは、寂しさをまぎらわそうと思って、めちゃくちゃに書きまくってた」
また、謎が、溶けていく。
「じゃあ、スマホをみて、凄く嬉しそうな顔をしてたのは―――」
「私の作品のレビューを見てたの。ファンの人が凄く喜んでくれてるのを見ると、もっと頑張ろうって思えるから」
「森崎幸一郎って書いたお中元とか、テレビで文芸賞の発表のとき、ものすごく嬉しそうにしてたのは―――」
「そんなのよく覚えてたわね。お中元は、私が出版社に届いたものを回収してきたもの!文芸賞の件は、さすがに自分の作品がああやって認められたら、誰でも嬉しいでしょう?!」
――――何だ。
僕は、たちまち溶けていくこれまでの疑念に、今まで自分は一体何をしてたんだろうと激しい後悔の念に襲われた。
彼女が僕の渡した本を見て思わず泣き出してしまったのは、それが死ぬほど嬉しいことだったから。
自分が書いた物語が、大切な人に読んでもらえて、その人の唯一に選ばれたということ。
僕は分かっていたはずだった。
自分の本当に大切なものを、誰かに打ち明けるのには、とても勇気がいるということを。
ひとしきり話して、未可子は僕のそばにもどってきて、しゃがみこんだ。
それから、ため息をついて、申し訳なさそうに笑った。
「ごめんなさい。―――本当は、私が悪いのにね。秘密にしようと思っていたのに、何か良いことがあるたびに、どうしても、あなたにも知って欲しいって気持ちが大きくなっていってしまって」
僕は未可子を見つめる。
違う。
僕が未可子に甘えていたからだ。
自分がきちんと未可子の深い部分まで受け入れられているかどうかなんて、これまでずっと確かめようともしなかったのだから。
「みか········」
「本当は、最初から、伝えるべきだった。プロポーズされたときも、自分がものすごく大切なことを伝える勇気もないまま、結婚してしまってもいいものかどうか、悩んだの。だけど、やっぱり言えなかった。でも、中途半端にほのめかすような真似をしたせいで、あなたをこんなにも傷付けてしまってたのね」
ごめんなさい、と彼女の手が、僕の頬に伸びる。
触れる。
あたたかい、手。指先。
頬を滑るそれを、僕はなされるがままに、見つめている。
彼女の秘密。
丸い顔。
大きな瞳。
滝廉太郎みたいな分厚い眼鏡。
「未可子―――――」
「なに。圭さん」
「····未可子の書いた本、全部探して大人買いする。10冊ずつ」
「本当に?」
「うん。······だから、全部にサインしてくれる?」
未可子はコロコロと楽しそうに笑った。
「嬉しいなぁ。世界の誰より、あなたにそう言ってもらえることが、本当に嬉しい―――」
僕はたまらず、彼女を抱き締めた。
結論。
僕はいつも、死ぬほどダサい。
たぶん、遥かなる宇宙のはじまりも、人類の誕生の瞬間も、僕と未可子の関係に比べれば、全然大したことじゃない。
僕は未可子を、心から愛している。
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