理論

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理論

 数えだすときりがない。  たぶん、付き合っていたころからも、その兆候はいくつかあった。  夜、連絡を入れて、一晩中返ってこなかったりだとか。  何気ない会話で、休みに何をしていたか聞いたら、ものすごく曖昧な回答で言葉を濁されたりだとか。  散らかるのが嫌だから、勝手に私の部屋には入らないで、だとか。  だけど、僕は未可子のことを心から信頼していた。  根拠なんか無い。  ただ、二人で過ごした時間が、確実に僕に証明していたからだ。  未可子は、素晴らしかった。  見たことがないくらい優しくて、繊細で、嘘が嫌いで、真面目で、努力家だった。  結婚して7年がたった頃。  ちょうど今年の8月の初旬だっただろうか。  異変は起こった。 「―――未可子?」  ちょうど風呂から上がった僕は、バスタオルで髪の毛を拭きながら、リビングのソファに座っている未可子のほうへ歩み寄った。  反応がない。  もう一度声をかけると、未可子は珍しくうわっと声をあげて飛び上がった。 「っわ!びっくりした!」 「何その反応。·····バスタオルまた準備しとくの忘れた。置いといてくれて、ありがとう」 「え? いいよいいよ!あっ、ごめん、私もお風呂に入ってくるね」  妙に慌てて立ち上がった未可子の様子に、僕は違和感を感じた。  名前を呼ぶ。 「―――未可子?」 「ん?」  彼女が振り返る。  屈託の無い笑顔が、そこに浮かべられている。 「·········どうしたの、圭さん」  少しずつ。  少しずつ。  しばらくの単身赴任生活を終えて、今年、僕の住んでいるマンションに戻ってきた彼女は、僕の知らない一面を垣間見せるようになっていた。  僕はたずねる。 「何か、あった?」 「え?」 「何か、いつもと違う」  何の気なしにそう言った。  だけど、次の瞬間。  彼女の表情が一瞬だけ、あからさまに凍りついたのを僕は見逃すことができなかった。  信じがたいほど。 「―――何にもないよ。なんでそんなこというの?」 「········未可子」 「お風呂冷めるから、入ってくるね。冷蔵庫のアイス補充しといたから、食べなよ」  未可子は、にこっと笑った。  僕は呆然とした状態で、なんとかそれを押し隠しながら、彼女の背中を見送った。  さっき、僕がお風呂から出てきた時。  彼女がソファでスマホを触っているのが見えた。  彼女は画面を見ながら、とても静かに笑っていた。 「·········っ」  僕は、ついさっき瞼の裏に焼き付いたその表情を、必死に掻き消そうと凄まじい努力を払う。  なんてことだ。  ――――彼女のその笑顔は、今までに見たことがないほど、とてつもなく幸せそうだった。
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