124人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
理論
数えだすときりがない。
たぶん、付き合っていたころからも、その兆候はいくつかあった。
夜、連絡を入れて、一晩中返ってこなかったりだとか。
何気ない会話で、休みに何をしていたか聞いたら、ものすごく曖昧な回答で言葉を濁されたりだとか。
散らかるのが嫌だから、勝手に私の部屋には入らないで、だとか。
だけど、僕は未可子のことを心から信頼していた。
根拠なんか無い。
ただ、二人で過ごした時間が、確実に僕に証明していたからだ。
未可子は、素晴らしかった。
見たことがないくらい優しくて、繊細で、嘘が嫌いで、真面目で、努力家だった。
結婚して7年がたった頃。
ちょうど今年の8月の初旬だっただろうか。
異変は起こった。
「―――未可子?」
ちょうど風呂から上がった僕は、バスタオルで髪の毛を拭きながら、リビングのソファに座っている未可子のほうへ歩み寄った。
反応がない。
もう一度声をかけると、未可子は珍しくうわっと声をあげて飛び上がった。
「っわ!びっくりした!」
「何その反応。·····バスタオルまた準備しとくの忘れた。置いといてくれて、ありがとう」
「え? いいよいいよ!あっ、ごめん、私もお風呂に入ってくるね」
妙に慌てて立ち上がった未可子の様子に、僕は違和感を感じた。
名前を呼ぶ。
「―――未可子?」
「ん?」
彼女が振り返る。
屈託の無い笑顔が、そこに浮かべられている。
「·········どうしたの、圭さん」
少しずつ。
少しずつ。
しばらくの単身赴任生活を終えて、今年、僕の住んでいるマンションに戻ってきた彼女は、僕の知らない一面を垣間見せるようになっていた。
僕はたずねる。
「何か、あった?」
「え?」
「何か、いつもと違う」
何の気なしにそう言った。
だけど、次の瞬間。
彼女の表情が一瞬だけ、あからさまに凍りついたのを僕は見逃すことができなかった。
信じがたいほど。
「―――何にもないよ。なんでそんなこというの?」
「········未可子」
「お風呂冷めるから、入ってくるね。冷蔵庫のアイス補充しといたから、食べなよ」
未可子は、にこっと笑った。
僕は呆然とした状態で、なんとかそれを押し隠しながら、彼女の背中を見送った。
さっき、僕がお風呂から出てきた時。
彼女がソファでスマホを触っているのが見えた。
彼女は画面を見ながら、とても静かに笑っていた。
「·········っ」
僕は、ついさっき瞼の裏に焼き付いたその表情を、必死に掻き消そうと凄まじい努力を払う。
なんてことだ。
――――彼女のその笑顔は、今までに見たことがないほど、とてつもなく幸せそうだった。
最初のコメントを投稿しよう!