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老人
その一部始終を遠く離れたところから僕は見ていた。苦悩に満ちた顔で走り去る彼の横顔を見て、怒りが湧くというよりもどこか懐かしくなって思わず僕はほほ笑んでいた。
一方で彼がこの場を立ち去ったことについて、少し寂しく思う気持ちもあった。もしかすると彼ならば正直に謝ってくれるのではないか―という期待が僕の中には芽生えていたからだ。しかしながら僕の期待は外れ、その後ろ姿に過去の自分を重ねざるを得ないのだった。
もちろん僕は彼のことを問い詰めたりなどするつもりはなかった。それに僕は知っていた。彼が今日あった出来事をどれほど悔やんでいくかということを。そしてそれが、彼の今後の人生において確かに良い経験になるであろうことを。
僕くらいの年齢になると新しい物への興味はほとんど薄れてしまっていた。代わりに古い物への愛着は年を重ねるごとに強くなっているような気がする。見ず知らずの誰かに怒りをぶつけるよりも、それを許すことのできる自分がいる方がよっぽど満足だった。
傷痕はその数だけ僕とこの車との思い出を蘇らせてくれる印となった。至るところにあるそれは、それだけ過ぎた歳月を感じさせるのだった。
新しくできた右側のドアの擦り傷を指で撫でた。できたばかりその傷はギザギザしてこちらの指が切れてしまいそうだった。その新鮮な感触にどこか少嬉しい気持ちになって、僕はドアに手をかけた。
ドアを開ける瞬間、そこにあった銀色の凹みに目がいった。これができたのは確か僕が彼と同じくらいの年の頃だっただろうか―泣きそうな顔をして謝っていた少年の顔が蘇ってきた。
ふと懐かしく思って、僕はその野球ボールほどの大きさの凹みに手を触れた。あの少年が今どこでなにをしているのかはわからないが、きっと今も変わらずあの時の正直な心を忘れずに生きているだろう。
運転席に座って僕は車のエンジンをかけた。年期の入ったこいつは危なっかしくその身を振動させた。その揺れもいつしか僕にとっては心地良いものになっていた。
「さあ、行こうか」
駐車場を出た僕は、左のウインカーで合図を出した。正面の道路に車は通っていなかった。
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