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遠くなる山々に、白、或いは薄い桜色が、風で流れて帯のように見える。
そういえば、家のすぐ近くの広場にある桜はどうだっただろう。
記憶の端に浮かぶ一枚。
葉桜になりかけた樹の梢を舞う黒い蝶に、届かない手を伸ばすコウさん。
コウさんは、三軒先の大きなお屋敷に住む近所でも評判の優等生で、県下屈指の進学高校、難関大学と進学し、大手一流企業に就職したと聞いた。そしてそれから、二年ほどして抜け殻のようになって帰って来たと。
食卓に上る噂話は、褒めたり羨んでみたり、普通が一番ね。などと適当なものだ。五歳年上なので、余り接点はないまま、過ぎたが、或る日、裸足で玄関から飛び出して来たコウさんに遭遇した。
黒い揚羽蝶を追い掛けて、家の前にある小さな広場に走って行った。
長く伸びた髪、細く痩せた手足。見知った顔なのかわからなかったが、その家から出て来たので、コウさんだと思った。
小さな広場には、路に沿って桜の樹が植えらていて、ベンチが幾つかあった。
蝶はコウさんには目もくれず、留まることもなくひらひらと桜の樹の間を舞っていた。コウさんはベンチに強か足をぶつけながらも、蝶を追う。
病んでいると思った。
そして、その無心な子供のような表情に、思わずシャッターを切っていた。
やがて、蝶の姿は見えなくなり、桜の樹の下に座り込んだコウさんを背負って、家に送り届けた。
「シュウ君、ありがと」
背中でそう言われたのが、ひどく不思議な気がした。
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