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それから、引きこもっているらしいコウさんの姿を見ることはなかったが、また同じ季節が巡って来る頃には、何があったのか、屋敷の一角にプレハブが建ち、フリーペーパーマガジンの発行所が出来上がっていた。
俺が手伝いに行くようになったのは、夏が終わる頃だった。
一年前とは別人のようにアクティブなコウさんには、一寸変わり者という噂話が付け足されていた。
俺は、あの桜の樹の下で、届かない蝶に手を伸ばすコウさんを写した一枚を、本人にも見せたことはなかった。元気を取り戻した彼に、何か、今更な気がして、見せそびれていたのだが、空の水色、桜の花の白、葉の緑、黒い揚羽蝶。色のコントラストが好きで、それが、コウさんの瞳に写し込まれているのが結構気に入っていた。
時の流れのほんの一瞬を切り取った絵が気にいることは余りないが、そんな一瞬をいつも探している気がした。
SLを見送りながら、ぼんやりそんなことを思い出していた。
そのまま、川沿いの堤防の桜並木を撮ろうと思ったが『野守の池』の標識に方向転換。足の向くまま、気の向くままだ。
周囲1.2キロほど、かつて川の流れていた所に出来た河跡湖で、枝垂れ桜が池を取り囲むように咲いていた。
お花見スポットだということをすっかり忘れていた。濃い桜色に圧倒される。
これだけの枝垂れ桜に囲まれると、思わず感声をあげたくなる。寒緋桜が20本ほど並ぶ中に、ひときわ幹の太い桜が見える。
俺は池の周囲を見渡したあとで、ファインダーを通して、ゆっくり花に目をやった。
今まさに、満開か、或いはその時が過ぎつつあるのか、長く伸びた枝先が風に揺れる度に花は舞う。
次々と池に身を投げるかのような、落花の瞬間。
連写の音を止めると、俺はファインダーから目を離し、再び覗き込んだ。
いつの間にか、大きな桜の下に若い僧侶が座って居た。
経を唱えているのか、僅かに唇が動いている。
桜と坊主か…桜の樹の下で死にたいと言ったのは誰だったかしら。
俺は、その一本だけ花の色が違う巨木の桜と、僧侶を見つめてシャッターを切った。
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