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歌い終わると先輩はまた口を開いた。
「俺、プロのドラマーを目指しているんだ。そのためにアメリカに行く。」
先輩の夢というのを私は初めて聞いた。
「俺頭悪いからさ、英語なんかロクにできないし、海外での生活に不安がないかと言えば嘘になる。正直最初は海外に行くことすら迷っていた。そんな時に理緒、君と出会ったんだ。」
「私?」
「そう。君は俺に変わりたいと言った。そしてそのために必死に努力していた。その姿をずっと見てきたから俺が一番よく知ってる。だからこそ、俺も逃げてはだめだと思った。」
先輩が私のことをそんな風に見ていてくれていたなんて知らなかった。
「決めたからには早くこの話を理緒にしないととは思ったんだ。でも話をしたら理緒は傷つくんじゃないかとも思った。君が先輩として俺のことを慕ってくれてるのはわかっていたから。」
先輩としてだけではないのだが、私は黙ってうなずいた。
「本当なら遠くに行ってしまう以上、少し距離を置いたほうがいいんだろうかとも思った。でも君の姿を見ていたらそんなことできなかった。俺はね、理緒。」
先輩は少し言いよどみ、私をまっすぐに見据えて言った。
「君が好きなんだ。」
私は頭が真っ白になっていた。
「これから遠くに行くって言ってるのにこんなこと言ったら困らせるかもしれないけど、君が自分を変えようとしたように俺も自分を変えたいと思う。今よりも成長して必ず帰ってくるから、それまで待っていてくれない?」
私はあふれ出る涙をどうすることもできず、震えた声で先輩に告げた。
「ずるいですよ先輩。そんなの断れるはずないじゃないですか。」
それからの日々はめまぐるしく過ぎていった。私は時間があれば先輩と一緒に過ごした。
映画を見たり、同じ音楽を聴いたり、学校帰りに手を繋いで歩いたり、そんな何でもない日々が何よりも愛おしかった。
三月、卒業式を迎えいよいよ先輩が飛び立つ日がやってきた。
その日は朝から雲一つない晴天で、門出を祝うかのようだった。
大きなスーツケースをガラガラと引きながら歩く先輩に私は何も言えずにいた。
搭乗ゲートは多くの人が行き交っている。定刻になり、先輩はゲートの向こう側へ歩き出す。私たちはそっと繋いだ手を離した。
あれからいくつかの春を超えた。
私はとあるバンドの日本公演のチケットを握りしめ桜並木の中を歩く。
最愛の恋人の待つ会場へと。
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