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人々が居なくなったのを確認して、私は帽子とマスクを外した。空気が気持ち良い。
私はしばらく深呼吸をしていると、背後からザッと何かが動く音がした。
私が慌てて振り返ると、そこにはスーツ姿の男が立っていた。
月明りに照らされていて男の顔がよく見える。
頬が赤く染まっているのは、お酒を飲んでいるからだろうか。
そんなことよりも。
私は顔を見られてしまったので、その場から逃げようとしたときだった。
「待ってください。」
その男に呼び止められる。いつもならそんなこと無視して立ち去るのだが、今日は違った。私は立ち止まってしまったのだ。
「今日、区役所であなたを見かけました。あなたは本当に心からこの桜を愛しているんですね。」
男は私の横に並び、桜の木を見上げてそう言った。
「あ、自己紹介が遅れました。私はこういう者です。」
名刺を差し出される。名刺には『代表取締役社長』と書かれている。
そして男の名前は早瀬尚純というらしい。もちろん初めて聞くし、初めて見る男だ。
「あなたのような方が、私に何かご用ですか。」
「私はこの桜を保護することができます。いや、させてください。」
「それは本当ですか?」
「はい。」
これは夢なのだろうか。私は嬉しくて嬉しくて、涙が溢れた。
きっと神様が味方をしてくれたのだ。私は桜の木の前で、ありがとうございますと手を合わせた。
そして私の救世主であるこの男、早瀬尚純。
私は向き合って深くお辞儀をした。
「本当にありがとう。何とお礼を申し上げたらよいか・・・。」
「あなたの笑顔が見られたら私はそれだけで十分です。あなたはこの桜の木に思い出があるって言ってましたよね。私もそうです。思い出が詰まったこの桜の木を無くすわけにはいきません。」
「私達・・・以前にどこかでお会いしましたか。」
「私はもう何年も前からあなたのことを知っています。ずっと綺麗なままだ、美しい。ってすみません。今のは忘れてください。」
恥ずかしそうにして男は顔を隠した。
「いえ、嬉しいです。そうやって褒められたのは久々だから。」
「・・・あなたのお名前を聞いてもいいですか。」
「宗形千代子です。」
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