ココロソメラレテ

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 それから半年後。この場所には、高層マンションではなく児童養護施設が建てられた。桜の木を残したままで。そして桜がシンボルであるこの施設は「さくら園」と名付けられた。    桜の季節がやって来た。そして私はまたこの場所へ戻って来た。 園庭では子供たちが楽しそうに遊んでいる。 ここへ来るのも今年で最後になるだろう。なぜなら私は安心したからだ。 春になって桜が咲かなくとも、こうして子供たちがいつもあの人の側に居る。 あの人も寂しくないはずだ。今頃一緒になって笑っているんじゃないかしら。 私ははしゃぐ子供たちに微笑みを向けるあの人の姿が想像できた。 しばらく目に焼き付けるようにして桜を眺めていると、突然「千代子さん」と名前を呼ばれ、私は後ろを振り返った。そこにはあの日のようにスーツ姿の早瀬尚純の姿があった。 「こんにちは。来てくれるんじゃないかと思っていました。」 「こんにちは。」 私はマスクを外し、丁寧にお辞儀をする。 「立派に咲いていますね、あの桜。」 「はい、本当に。あの人も幸せそうです。」 「あの人?」 「いえ。今のは聞かなかったことにしてください。・・・では、私はそろそろ行きますね。」 私は再びマスクをし、帽子を被った。 「いつでも遊びにいらしてくださいね。」 「はい、ありがとう・・・。」 男は笑顔だった。どうしてあの日、この人に名前を教えたりしたのだろう。 もう何百年も私は誰にも本名を明かしていなかったのだ。 私は歩きながら、去年の出来事を思い出していた。 初めて参加したデモ行進。区役所から追い出されたあの日。私は人間を恨んだ。いや、この国をも恨んだ。あの人が死んだあの時と同じように。 自分のために何もしようとしない、見てみぬふりの愚かな者たちを。 そんな中で、あの男、早瀬尚純は一筋の光だった。 私は長いこと人の優しさというものに触れてこなかったから、嬉しくなったのね。 それで気が抜けて、うっかり名前を言ってしまったのかもしれない。 あの男は何年も前から私を知っていると言った。 それがどういう事なのか今の私には全く気にならなかった。
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