煙突

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 地方からの学生が多いアパートは風呂なしが当たり前だった。今では目線を少し上にすると高層マンションがいくつか視界に入るが、当時は、高層マンションの代わりに銭湯の煙突が同じ数だけ視界に入る風景があった。それぞれの表面には何々湯とはっきりと見えるよう大きく書かれて、煙を排出する役割と同時にそれぞれの銭湯の広告塔の役割も担っていた。今日はどの銭湯へ行こうか、その煙突の数だけ選ぶ楽しみがあった。今のように露天風呂や、サウナが併設されているわけでもなく、風呂上りに飲める牛乳やジュースの種類の違いを味わうくらいなのだが、風呂道具を携えアパートを出て上を見上げて、どこにしようかと徐に迷うこと自体が退屈な毎日の生活のなかでは小さな小さな楽しみであった。  先日、久しぶりにこの町を仕事で訪れたところ、空に届くかと思わせるほどに高く組み上げられた足場が視界を襲う異様な光景に遭遇した。その足場に囲われていたのは、自分が最も愛用していた銭湯の煙突だった。すでにマンション建設用地という看板の傍らの銭湯母屋は取り壊され、空高く組み上げられた足場によって作られた鉄の檻に閉じ込められた囚人のような煙突の姿に、自分が逮捕され収監されたような思いを抱き、この場で解体が始まり全身もろともなぎ倒され打ち砕かれるという次に確実に起こる既定の事実から逃れるため、慌てて地下鉄の駅につながる階段に転がり込み、電車の轟音とともに今見たことを記憶から抹殺しようとしていた。
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