187人が本棚に入れています
本棚に追加
「お先に失礼します」
「今日はみっちゃんが一番なの。明日は雨ね」
容子たちの温かい視線に見送られ、美智は定時に事務所を出た。
駐車場は社員の車でいっぱいだった。三井のセダンと福島の大きなワゴン車の前を通り過ぎる。出社したのが遅かったので、美智の車は事務所から遠い場所にあった。隣には見かけない高級外車があったが、メカ好きの設計の人間が買い換えたのだろうという程度にしか受け止めなかった。
自分の車のドアにキーを差し込む。その時、外車の車のウインドーが静かに下がって「みっちゃん」と声がした。
聞き覚えのある声。しかも、嫌な記憶。……振り向くと山一の顔があった。高級外車の運転席から見上げている。
「話がある。助手席に座ってくれないか?」
「私には、ありません」
冷たく言った。
「私の見舞いの菓子は、食べてくれたんだろう? 君の寝顔も良かった。話くらい聞いてくれよ」
山一が浮かべた不敵な笑みで、美智の背中を電気が走った。
「相変わらず、セクハラですね」
そう返すのが精一杯。車に乗り込むとドアを閉め、山一と目が合わないようにスピードメーターを見つめた。心臓がバクバクいっている。自分が動揺しているのが分かった。
あれは、罠にはめるための毒まんじゅうだったのか……。ガトー・パリのほんのり甘い記憶が、苦いものに変わった。
最初のコメントを投稿しよう!