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2人のやり取りは美智の耳を素通りする。窓から流れ込む穏やかな風が頬を撫でようと、能天気な声音が耳に不愉快だろうと、モニターに並ぶ数字に緊張を強いられるからだ。その緊張感は例年以上のものだった。この半年の間にベテランの経理課長と優秀な経理課員が退職し、変わって配属されたのは会計の知識のない野村容子課長と新入社員の皐月だ。そんな体制の中で、上期の業績を中間決算という形でまとめなければならなかった。
「少しやせたんじゃないですか?」
皐月の声に、珍しく美智の耳が反応する。モニターから木村の顔に視線を移した。人は慣れるものだ。景色でも、人の容姿でも、言葉でも。皐月の指摘がなければ、長年見てきた木村の顔も同じに見えていたに違いなかった。皐月がやせたという木村の顔は、美智の眼にも頬がこけて見えた。
「ああ、期末で工事や検査が集中したからなぁ。ずっとナポレオンだ」
木村がおどけた表情を作った。
「ナポレオン?」
「知らないのか? ナポレオンは3時間しか寝なかったらしい」
「へぇー、知りませんでした。木村さんは夜も寝ないで何をしているんですか?」
小首をかしげる皐月は可愛らしい。
「検査報告書を作っているんだよ。役所やら元請けやら施主やらに出す書類が山ほどあるんだ」
「まぁ、可哀そう」
皐月が同情して見せると「そうかい」と木村は目尻を下げた。
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