第二章 手繰り寄せられて

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『もしもし、晴馬君?』  夏鈴よりもかなりトーンの低い彼女の声を聞くと、何とも言えない心地になる。出会ってからもうすぐ30年も経つのに、まるで昨日のことのように過去の記憶と感情がどこからともなく湧き上がるせいかもしれない。  ろくな反抗期もなく両親を火事で同時に亡くした俺にとって、真央さんとの関係はどこか母と子のようなテイストが混じっていた気がする。夏鈴よりも先に自分の浅はかで弱い部分を見せた相手だから、余計に今更どんな態度をするのが正解なのかもわからない。 「恵鈴の個展、提案してくれてありがとうございます」と、俺はわかっていながら間抜けなことを口走っていた。それを、彼女はほんの一瞬の間で受け止め『お世辞抜きに素晴らしい才能だと思ってるのよ』と返してくれた。 『それより、どうなってるの?  急に恵鈴ちゃんと燿馬君が来れないって聞いたけど、どっちかアクシデントにでも遭ったとか?心配になっちゃって、居ても立っても居られないから電話したんだけど』  ドタキャンの電話一本で済む話じゃないことぐらいわかっていた。でも、俺は大人げもなく彼女を避けている。夏鈴を裏切っている気分になるから。  22歳から6年間、俺はこの6歳上の当時の上司と不倫関係になった。ひょんなことから付き合い始め、それまで感じたことのない濃厚な関係を築いた。どうしようもなく辛い時に抱き合うという男女の、もつれあうように拙い逢瀬に溺れて、未来を見失っていた。酒や煙草と同じで、ただ今を生きるために必要な体温だったのだと思っているが、それではあまりにも相手に失礼な気もする。だから…… 「……俺も良くわからないんです。夏鈴は、前に話したと思うけど俺の妻は通常の人よりも鋭い感性を持っていて、そのことが原因で恵鈴が……」
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