1、もしも私が…

2/9
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
 とある休日の、昼下がりの話だ。  季節は3月上旬、地下鉄のホームには、まだまだ寒さが残っている。  私事でよいことがあった私は、意気揚々と有楽町駅から電車に乗り込んだ。  池袋方面へと向かう電車のなかは、いつもながら汗臭かったが、私はそのような些事、気にもならなかった。今日の私は機嫌がいいのだ。  休日ということもあってか、車内の乗客はまがらだった。  女子高生と思しき少女らは熱心にスマホを凝視している。休日出勤だろうか、疲れ切ったサラリーマンは険しい顔で書類を睨んでいる。  電車の中というものは共有空間ではあるが、誰もが専有空間であることを望んでいる。  誰も、他人になど興味はない。他人が何をしようと、自分のパーソナルエリアさえ侵されなければどうでもいいのだ。  それはもちろん、私にとっても同様だ。  電車が永田町に着いたあたりで、その親子は乗ってきた。  パッと見、4歳か5歳、くらいだろうか。泣きじゃくる娘と、その手を引く母親だった。女の子は、好きなおもちゃでも買ってもらえなかったのだろうか、ひどい癇癪を周囲にまき散らしていた。「おかーさん、おかーさん」と、大きな口を開けて、派手に泣いている。  若い母親は困り顔で娘をなだめつつ、車内に入ってきた。  ああ、しまった、と思った。私は車両の端、3人掛けのシートに座っていたのだが、あろうことかその母娘は私の隣に席を見出したのだ。さらに、よりにもよって、私の隣に娘を座らせたのだ。他人からみれば、私は父親にみえただろうか。泣きじゃくる娘を挟んで、3人並ぶことになった。  「……すみません」母親は私に軽く会釈する。「いえいえ……」私は小声で返事をしたが、内心は穏やかではなかった。子ども特有の甲高い泣き声は耳を突き刺し脳まで貫通する。 休日にまで、この声に悩まされたくない。  厄介に思ったのは向かいに座る、頭頂部の髪の毛を失ったオヤジも同じだったようだ。母娘を睨み付けてはしきりに、それとわかるように舌打ちを繰り返している。  娘の泣き声は止むことを知らなければ、オヤジの舌打ちも同様、止むことを知らない。母親は子どもをあやしながらずっと謝り続けていた。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!