1、もしも私が…

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 電車が市ケ谷を通過した頃、ついに私の我慢は限界に達した。  それはなにも、泣きじゃくる娘や、困り顔の母親に対してではない。  絶対に歯向かわれないとわかりつつ、いや、わかっているからこそ、脅しつけるように睨みつけ、舌打ちを続ける不快なハゲオヤジに対してだ。私はそのような不寛容や狭量な態度を許せる質ではない。しかし、だからといって、そんなオヤジを怒鳴りつけ、果てにはぶん殴るようなことが出来る質でも、決してない。私は実に小心者なのだ。      だから私は、恥ずかしながら、自分にできる精一杯で、この不幸な母娘を支えようと試みた。  「あの……大変ですね」この哀れな母親の気持ちが少しでも楽になればと、少なくとも、私は気にしていませんよ。という意思表示だったのだが、少し変だっただろうか……?  「いえ……すみません……」と返事をした母親は、明らかに動揺しているようだった。やはり、話しかけたのは失敗だったかもしれない。  その時、これもまた私のせい、だとは思いたくないのだが、その娘が一層甲高い声をあげて泣き始めた。子どもが泣くのは、感情をアピールするためだ。母親に何かを気づいてほしいのに、その母親ときたら知らない男性、つまり私と話している。子どもはそれが気に食わなかったのかもしれない。だとすれば、やはり私のせいのようだ。  声にならない発声で、娘は泣き叫んだ。ハゲオヤジが一層激しく舌打ちを繰り返す。貧乏ゆすりも止まらない。同じ車両の中なのに、ここだけ激しくかき混ぜられているかのように居心地が悪い。    母親はやはり、困り顔で「すみません」と謝るのだろう。そう思っていた。  しかし次の瞬間、私は思わず声をあげた。  「……そんな!」  この若い母親の混乱は極限に達したのだろう。我もわからず娘に手を上げたのだ!  私は身を乗り出し、女の子に覆いかぶさるようにして、すんでのところで母親の厳しい仕置きを阻止することができた。  母親は目を見開き、肩で息をしている。そして子どもの泣き声は当然の様に止むことがない。 「それはいけませんよ、お母さま」  
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