1、もしも私が…

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 「もう5じ40ふん……おうちかえる」  「え?」  娘がまたぐずり始めている。  私は、針の動きに集中させようとしただけだ。3歳児が時計を読めるなんて、初めから思っちゃいない。  「時計、読めるの……?」  3歳児が数字に意味を見出し、時計を難なく理解する…‥?  ありえ……なくはないのだろうが、しかし……。 保育の常識では、ない……。  おかしい、なにか、おかしい。  母親と目が合う。彼女の目は、薄気味悪く揺らいでいた。 なぜだか、私にはそれが異形の怪物の目に見えてならなかったのだ。 そして彼女は微笑んだが、その笑顔は明らかに人工的な、強張ったものだった。  私は今や、この母親に強い確信に似た不信感を抱いていた。  もし、ここに座っているのが私でなければ、気がつかなかっただろう。 調子の狂ったピアノのような不協和音が、頭の中で鳴りやまない。 本当は……。本当は……! この娘は意味もなく泣いていたわけじゃない。 この娘は3歳なんかじゃない。 この娘は母親のことを、「ママ」なんて呼びはしない。 あり得ない形のピースが、あってはならないパズルを組み立てていく……。  世の中に、こんなに気色の悪いことがあっていいのか……?  そんな……。まさか……。  「……。娘さん、お名前なんといいましたっけ?」  「ええ、……ええ……」「カナ、といいます……」  「!!」  脳に、電撃が奔った。  電車が池袋駅に到着する。  「あら……行かないと!」その女はぐずっていた幼児の腕を乱暴にひっつかみ、脱兎のごとくドアから飛び出そうとした。  
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