1、もしも私が…

9/9
前へ
/9ページ
次へ
 実際のところ、私はもう、何も語る必要がないのだ……。 この状況では、何を言っても無駄になるだろう。  「ふぅ……」  シートに脱力し、深くため息をつく。  女の子は泣き疲れたのか、私に小さな頭を預けて眠ってしまった。  ほんとう……。ほんとうに、「よく頑張ったね……」  「おうち、帰ろっか……」私はそっと、この子の髪をなでた。  バカなやつだな。お前はもう「詰み」なんだよ。  頭の中で、誰かが嘲笑った。    電車が発車しないことに腹を立てているのか、あのハゲオヤジはまだ舌打ちを続けている。  確か、あの女は言っていた。「私も同じだ」と。あの女は、人生に退屈し、わずかな刺激のために、この子を誘拐したのか……。  「ちっ、ちっ、ちっ、ちっ、……」  私はその汚らしい舌打ちを、しかし、むしろ心地よくさえ感じていたのだ。  いろいろなことがありすぎて、疲れているんだ。  今は誰とも話したくはない……。  「動くな!」「その子を放せ!」駆け付けた駅員が私を怒鳴りつける。  私は無論、この子の手を離さない。  人生で誰かに連れ去られる経験なんて、一回でも多すぎる。  「お話、伺ってもかまいませんね?」  駆け付けた刑事だろうか。今度は中年の男が、警察手帳を見せびらかして、私を睨みつけた。  私はマナー違反だと知りつつ、空いているほうの手でタバコをくわえ、火をつけた。  深く肺に含み、ゆっくりと、煙を吐き出す。  「そこのオッサンに聞いてくれ……」  私が語るべきことなど、何もない。  なぜなら、あのハゲオヤジがずっと、私たちを睨み続けていてくれたのだから。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加