旧鷹取邸の夜

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旧鷹取邸の夜

「お疲れ様、乾杯」 応えてくれる声も無く、缶ビールを開けるプシュっとした音だけが夜風に響いた。 クジ運が無いのは昔からの性分で、2年連続で花見の場所取りを任せられた英治は、人気の無い辺りを見回しながら、「案外場所取りする人いないんだな」と、初めて訪れたこの場所の値踏みをした。 ここは旧鷹取邸の庭園。 半年前までは歴史小説作家の巨匠、鷹取光太郎の自宅だった場所だ。 天才だからか、ただの人嫌いだったのか、名実共に名高い鷹取氏外出する姿を見たものはほとんどいなかったそうだ。 「原稿も〆切前には、郵便で送られてくるだけで、電話で話したことしかない」独り身だった鷹取氏の一番の身内として、そう笑って話していた担当編集者が、巨匠の追悼番組で話していたのを英治は思い出した。 「誰が1番に来るかな」 気にする人目もない英治はポツリと呟いた。 暑い盆の日、高齢がたかってか、鷹取氏は急逝した。心筋梗塞だったそうだ。 丁寧に整理された庭園を放置するには勿体ないと、役所がこの庭園を管理することになり、一般開放を決めるまで、そう時間はかからなかった。それはこの地域に住む人々の「鷹取家の桜を間近で見たい」という声が予想以上に多かったからだろう。今日は開放された初めての夜だった。
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