苦い。それから甘い。

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苦い。それから甘い。

 どうしてこうなんだろう。わたしは自転車を漕いだ。胸が苦しいのは、坂道だからじゃなくて、いままでのことを思い出しているからだ。  幼稚園のころ、誕生日会でもらったテディ・ベアを「かわいくない」と返したこと。小学校のキャンプでカレーを焦がした子に「まずい!」と言ってしまったこと。でも、きわめつけはやっぱり。  玄関のドアを開ける。今日もお姉ちゃんの靴はなかった。  ため息をつくと、甘い香りがするのに気づいた。バニラクッキーだ。お姉ちゃんの大好物。  リビングに入ると、ママがクッキーを冷ましているところだった。おかえり。とふりむく。 「ただいま。うわあ、美味しそう」 「結衣に届けようと思ってね。アパートじゃ、オーブンを使えないでしょう」  そうだね。それだけつぶやいて、わたしは一つだけつまんだ。  休みの日に、お姉ちゃんとわたしはいろんなお菓子をつくった。アイスクリーム、マフィン、プリン。家中にあふれる香りにうっとりしていた。  はしゃいでバニラエッセンスをかけるわたしを、お姉ちゃんはいつも止めた。だめだよ。これは香りは甘いけれど、味は苦いんだから。あんまりかけたらお菓子が台無しになっちゃう。  自分の部屋で制服を着替えた。窓から大きな桜が見える。今年は家族でお花見に行く予定だったのに。  今年の春、お姉ちゃんは家から電車で20分の市立大学に入学した。浪人して受けた東京の大学はだめだった。  パパもママもいっぱいなぐさめた。ごちそうをつくって、明るい話をしようとした。みんなで前を向いて、頑張ろうとしていたのに、わたしが壊してしまった。  きっかけはささいなことだった。ワインでほろ酔いになったパパがわたしを見てこう言った。 「芽衣も同じ市立大にしたらどうだ?姉妹そろってのキャンバスライフも楽しそうじゃないか」  そうだね、と返せばよかった。それなのに。 「ええ、やだよ。あんな地味な大学。学費が安いだけで、就職先だって微妙だし」  お姉ちゃんは怒らないでくれた。その夜、となりの部屋からはすすり泣きが聞こえた。  引越しの車が来たのは、それからすぐだった。実験とか、アルバイトで忙しくなるから。その理由が嘘なことくらい、わたしにもわかる。  あれから二ヶ月たった。お姉ちゃんはまだ帰ってこない。
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