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「妻がねえ、あたしが死んだあとに寂しさを覚えたなら、桜の木を植えなさいと言ったんだよ。バカ正直に植えて、ご丁寧に育ててしまってねえ」
このひとりごとを猫に聞かせるのも何度目になるのか。思い返せば毎年のようにこの時期には必ず野良猫が姿を現していて、毎回咲いていない桜の木の下で、にゃあ、と鳴くんだ。
なんの下調べもせずに買ってきた苗木はどんどん大きく育っていき、今ではもう屋根にのぼる足場にできそうな立派な木になった。最初に野良猫と出会った日はまだ植えたばかりで、折られてオモチャにされてしまうと怖がり箒で追い払ってしまったことを、わたしは毎回贖罪や懺悔のつもりで、当時の猫ではないことも理解したうえで語り聞かせていた。今でもハッキリと覚えていて、思い出すたびに申し訳なくなる。
「迎えにいくから、のんびり待ってなさいと。そうも言ったんだよ」
「にゃあ」
湯呑みを置いて、サンダルに振りかかった砂利も払わずに足を引っかける。年齢のわりには真っ直ぐなほうだと医者に言われた背は、それでも曲がっているのだろう。じゃくり、じゃくり、と音を立ててやってきた桜の木の下で、ゆっくりと根から枝先まで見上げていかなくともよくわかるほどに、どんどん大きく育った桜の木とは打って変わって、じわじわと低くなる目線。わたしがこの世に生きていて一番年老いたと感じる事柄だった。
「そろそろ来るのかねえ」
「……にゃあ」
わたしは猫が寂しそうに鳴いたことに、ひどく驚いて目を見張る。毎年ここで同じようなことをして、同じようなことを口に出してきたけれど、返事のようなものをこのタイミングでもらったのは初めてのこと。猫は自分の死期を悟れるようなことを又聞きしたこともあるけれど、人間の死期をも悟れたのだろうか。
静かに目を伏せ、口は弧を描く。
「わたしが死んだら、この桜の木をお世話してくれる人に全部あげるよと。そう一筆したためておかないとねえ。ああ、忘れないうちにやっておこう。わたしたちのご飯も買いに行かないと」
「にゃあん」
毎年この時期に訪れる野良猫のお客さまは、必ず買い出しを怠けているわたしに食糧の備蓄不足を実感させ、最寄りのスーパーまで隣を歩いてついてきてくれる。そして、片手に杖、片手に買い物袋のわたしを先導し、励ましながら家までつれてきてくれる。
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