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さくら森
ーーあのお山に入っちゃぁいけないよ。攫われてしまうからねーー
そう言ったのは誰だったのか。曖昧な記憶は蝋燭の灯りのように頼りなく、まだ幼かった私の両手を握りしめ、懇々と言って聞かせた人の顔をぼやかしてしまう。
あの手は、あの老いた手は、誰だったのだろう。
思い出そうとすればするほど、記憶は霞んでゆくばかり。
曖昧模糊とした忠告を無視し、私は深くこうべを垂れてお辞儀をしているかのような枝垂れ桜を掻き分け、一歩足を踏み出した。
「あ、あ」
私はここを知っている。
靴底を通しても伝わるしっとりとした土の感触を、木々を揺らし吹き抜ける風に乗った微かな香りを、髪や頬を包んでは撫で消える空気そのものを、私は確かに知っていた。
上も下も右も左も、前も後ろも。見渡す限りの桜、桜、桜。
どこまでも続く桜の森はきぃんと凍った空気で私を包む。私の耳には自分の息遣いと、ザクザクと土を踏み進む足音だけが届く。
足を止め荒い息を吐きながら辺りを見渡せば、やはり空は薄紅で、音を立てる存在は変わらず私しかいないのだった。
「桜しか、ない」
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