第一話  蘇州夜曲

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 3・  役員室で山田恵子に恒星が言ったあの言葉の半分は、嘘だ。  多国籍企業のオーナーが、それぞれの国に開いているオフィスの人間の顔など、全部把握している訳が無い。  厳恒星があの女と出会ったのは、半年前。偶然に東京オフィスの女子社員と、廊下で出くわした。  日本人にしては長身の女だと思った。スレンダーなボディの割に、胸の大きな女だ。  役員室から出て来た彼に気づいて、女は慌てて壁に張り付き頭を下げた。  前を通り過ぎる時、チクッと何かが意識に刺さった。  驚いて女を見た彼は、驚愕した。女の身体を、何か蒼いモノが包んでいる。  気を研ぎ澄まして、心の目を開く。  そう。厳家の当主には時々、彼の様な異能者が生まれる。  人の纏う気が色になって見える、その形も見える。  そのせいで、今だに独身。  他人に見えないものが見えると言うのも、ある意味では極めて面倒なものだ。  人の醜い部分が、ストレートに目に飛び込んでくる。  鮮やかな気を持つ、彼の力に負けないものを持つ女を探しているのだが、今だに見つけてはいなかった。(だから未だに・独身・・)  その女は、蒼い竜を身に纏っていた。  女の身体を包む竜の姿には見覚えがある。(厳家の紋章と同じ龍だ)  「どうして日本の、それもこんな場所の、こんな女の中に居るんだ?」  (一族の救世主だった大叔父が愛した、あの女の生まれ変わりか)、疑念が生じた。  カナダに帰ってから、屋敷の書斎に飛び込むと、上海から一族を連れてカナダに亡命した厳家一族の救世主・大叔父の恒輝(こうき)が残した彼の日記を書棚から引っ張り出した。  大叔父の(げん)恒輝(こうき)は、1905年(明治三十八年)の上海生まれ。  日記は彼の、たった一つの恋の日々を綴ったものだった。書き出しは1939年、それから僅か二年間の記録だ。       
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