第一話  蘇州夜曲

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      -上海財閥の一翼を担っていた厳家当主の日記ー   厳家の当主だった恒輝は、1940年(昭和十五年)には既に三十五歳だったにも拘らず、当時としては珍しく独身を貫いていた。  理由はただ一つ。  彼が持つ特殊な能力にあった。  恒星がそうであるように、恒輝もまた異能者だったのである。  だから特別な気の色を持つ、そんな女を探していた。  だが、やっと見つけた女は中国人で無いばかりか、日本軍に許婚者を持つ身だった。  女の名前は、五條(ごじょう)芳子(よしこ)。  日本人の外交官・五條子爵の娘で、陸軍軍人の柳原(やなぎはら)大尉の許婚だ。  結婚の為、二年前に上海に来たが、盧溝橋事件・1937年(昭和十二年)を発端とした日中戦争の激化に伴い、結婚が延び延びになっていたのである。  芳子と恒輝の出逢いは一年前。  彼が蘇州の別荘で、文人墨客を招いて開いたパーティーに、父に伴われて現れた二十一歳の芳子。  芳子は美しかった。  ただ美しいだけの娘なら、三十四歳の男は今迄にも沢山知っている。  だが豊かな教養を心に秘め、歌人として世に立とうと志す娘の強い眼差しに惹かれた。  言葉に踊る歌人の煌めき、打てば響く様な受け答え。 何もかもが好ましい。  然も身に纏う色は、翡翠色。 深山の谷に流れる水の色だ。  「私の妻に迎えたい」  富豪の厳恒輝が妻に望んで、願いを聞き入れない娘など上海には居ない。  だが、五條子爵に申し入れたその願いに、はかばかしい返事は帰ってこなかった。  「芳子の許婚は帝國軍人です。こんな話が耳に入ったら、貴方の立場が危ない」  「どうか諦めてください」  五條子爵は恒輝の身を案じて、この縁談を断ったのである。  それ頃の日本軍は、1938年頃には南京事件が世界の批判を浴びており、かなり苛立っていた。  外務省に、軍にとって芳しくない報告を入れた五條子爵に対して、キツイ批判を口にする軍人も居る。  五條(ごじょう)実篤(さねあつ)の立場は、微妙に拙いことに為りかけていた。  芳子の結婚が延び延びになっている訳も、その辺りに原因があったとも言えた。
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