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だが、彼は芳子を諦めなかった。
魯迅が死を迎えるまで暮らした街・上海には、多くの文人を受け入れるサロンがある。
有名な山内書店もある。
文化人の自由が、未だ上海にはあった。
女流歌人を目指す芳子が来ると聞けば、恒輝は何処のサロンにも出掛けて行った。
そうして少しづつ間合いを詰めて行った彼は、許婚との軋轢に悩む芳子の心を彼の許へ引き寄せることに成功した。
ある日、恒輝の案内で上海都心の映画館へ、ハリウッド映画を見に出かけた芳子は久しぶりに、心が浮く立つ思いを味わった。
決して美男子では無いが、十三歳も年上の異国の男が醸し出す、安心して寄りかかれる心地よさが芳子を包みこむ。
厳家の車の後部座席で、初めて交わした優しい口づけ。
「蜜月の始まり」と、恒輝が記したページだ。
五條子爵の長女・芳子と柳原大尉の間に軋轢が生じて、もう一年以上に為る。
「君のその浮ついた軽薄な処を、早く直してくれたまえ。妻に迎えるからには、立派に銃後を守る国の母になって貰わねば困る」
上海に来て間もない頃の事だった。ある日、久しぶりに顔をみせた許婚は芳子の着ている白いワンピースを見て、それは嫌そうな顔をして言ったのだ。
本当に久しぶりの再会だったから、許婚の前で出来るだけ美しくありたかっただけなのに。その女心を理解することも無く、冷たい声だった。
「国策に反する非国民的な格好はやめて、早く着替えてくれ。不愉快だ」、そう言われて絣の着物に着替えた。
それから、「結婚したら何人の男子が産めるか」と聞かれた。
会話が途切れ、心が冷えた。
五條子爵家は京都の貧しい公家の出だったが、明治を迎えて華族の端に名を連ねた。文学にも芸術にも造詣が深い家として人々の尊敬を集めた五條家は、流行りの洋館に住み、欧米の文化に親しんで文明開化の恩恵を素直に受け入れた。そんな刷新の気風に乗った家はやがて、多くの外交官を輩出した。
少しの華やぎと、陽だまりの様な温かい家族の愛に包まれて過ごした芳子の少女時代。
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