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戦争が始まるまでは、父に連れられて資生堂のパーラーで食事を楽しみ、野外音楽堂のコンサートに行った記憶もある。学校はカトリック系の女学校に通った芳子だから、聖歌も歌う。
英語も話せる。
だが今やそれは、敵国語と言われて話すことを禁じられていた。
そんな芳子の許婚の柳原大尉の家は、質実剛健の軍人の家柄。何処か最初から馴染めなかった。
この縁談は芳子が十六歳の年に、外務省のさる高官を通じて五條家にもたらされた。
家と家との縁組である。
「将来有望な若者だよ。それになかなかの美男子だ」、高官はそう言った。
確かに彼は、陸軍士官学校を優秀な成績で卒業すると、一族が陸軍の軍人である事も手伝って出世街道を驀進した。背も高く、細身だが筋肉質の二十二歳の彼は、容貌の整った美男子でもあった。
「軍服姿が凛々しい、素敵なお方だ」、と初めて会った頃は思っていた。
だが今は、そうは思えない。
戦争がすべてを変えたのか、それとも初めから噛み合わないものがあったのか。
「この方と、生涯を共にできる自信が持てない」、薄くそう思い始めている。
「お父様、帰国いたしましょう。お母様と妹を何時までも、二人だけにしては置けませんわ」
昨日も父にそう頼んだが、五條子爵は首を縦には振らなかった。
彼は外交官として、日本国内の事情にも通じている。昨今の女流歌人への弾圧や、文人に加えられる数々の暴力を、痛ましい事だと思っていた。
女と言えど、投獄されたらどんなひどい扱いを受けるかも知っている。そして、軍部に睨まれている自分の娘が、どれほど平民への格好の見せしめになるかも、熟知していた。
妻と十歳の末娘は、妻の遠縁にあたる長野の農家に預けて来た。江戸時代から庄屋を務めて来た家は、村の尊敬を集める土地の名士だ。何とか後見をしてくれるだろう。
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