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「話があります」
改まって、口を切った。
厳恒輝は、今の国民党独裁体制に疑問を持っている。かつての孫文が率いていたものとは、何処か違って見える。
それに加えて、共産党の毛沢東も信用できない。
蒋介石はまだ上海財閥と閨閥でつながっているから、上海財閥に利用価値があると思っているようだが、共産党は違う。
魯迅先生を共産党の国策の宣伝に、徹底的に利用する腹だと見ていた。
おそらく財閥の存在を、将来的には認めないだろう。
恒輝は厳家の財産を、清朝が終焉を迎えた頃から、目立たないように少しづつ遠く離れたカナダに移してきた。
政情が不安定なうえに、軍閥や日本軍との戦いで多くの死者を出している現状を踏まえれば、一族の避難場所をどこかに置くべきだと感じたのだ。
そして今夜、遂に彼は国を捨てる決心をした。
「芳子さんを妻として、一緒にカナダへ連れて行きます。許可をください」
真っ直ぐに見据えられて、五條子爵も覚悟を決めた。
「私は国に帰ろうと思う。どうか芳子を頼みます」
静かに頭を下げた。
「国に妻と末娘を残している。一緒には行けない」
言わんとするところは明白だった。戦況は悪化している。
「戦争が終わったら、迎えを出します。きっと来てください」
話は付いた。
その後で、芳子の眠る部屋を覗いた。
貌を赤く腫らしたままで、芳子はベッドに座って待っていた。痣もできている芳子の身体を見て、息を呑んだ。
大叔父の日記には、その時の二人の話し合いの様子が淡々と記されていた。
「私をまだ妻にと望んでくださいますか」
小さな声で、聞いた芳子。
聞くまでも無い事だった。
黙って抱き寄せると、熱い口づけで黙らせた。
胸の中で芳子が頼んだ。
「名前をください。貴方の妻に相応しい中国の名前を、私につけて」、俯いて涙を流す芳子が、何を捨てようとしているのかが解った。
「芳芳と書いて(ファンファン)と呼ぼうと思う。それで如何かな」、芳子は少し微笑むと頷いた。
芳子はこの時から、彼の中では(ファンファン)になったと記されていた。
其れから三日後、五條子爵は厳家の用心棒に送られて、日本に向かう船に乗って上海を旅立っていった。
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