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蘇州の別荘に、一人残った芳子。
「結婚式の前にお願いがある」、と言う。
「身体にあなたの紋章を、入れたいと思います。いけませんか」
「それは、刺青の事を言っているのか」、恒輝は蒼ざめた。
「何故」、と問うた。
芳子は、「覚悟の為」とだけ答えた。
芳子は知っていたのだ、と後から想った。あの言葉を私に残すために、その刺青が必要だったのだと。
それからカナダへの出国の準備に追われる日々の中で、人生で一番幸せな三月を過ごしたと、恒輝は書き残している。
芳子を初めて抱くときは、どんな風に迎え様かと考え悩んだらしい。
幸せな夢だ。
それは温かな春の夜が良い。
そうだ!
モッコウバラの白い花が咲き誇るテラスの戸を開け放し、馥郁とした香りが部屋にみちる宵、黒檀の寝台に真っ白な雲のような布団を幾重にも敷こう。
赤い花嫁衣装に身を包んだファンファンをその寝台に抱きあげて、私だけのものにする。
「考えただけで、幸せで身体が蕩けるようだ」、と書いた恒輝。
だが、その日は訪れなかった。
胸にある心臓の反対側の背中に、厳家の紋章を刻んだ芳子。
それは小さな竜だった。
彫り上がった背中を見せられて、思わず指を這わせて息を呑む。
「痛かっただろうに。君と言う人は・」
腕が身体に回されて、芳子は改めて自分の想いに気付いた。国を捨ててもこの人と一緒に生きる、と覚悟が出来た。
「明日、式を挙げよう」
「僕の妻に為って、一緒に海を渡ってくれるね」、恒輝の言葉に涙ぐむ。
その夜。
花嫁衣装の試着を終えると、恒輝が選んだチャイナドレスに着替えた芳子をテラスで迎えた。
抱きしめて耳元で囁く。
「いよいよ明日だ。もう僕のものだよ」
黒髪を背に流して、白地にピンク色のスミレを刺繍したチャイナドレスを着た芳子は、少女のように初々しい。
「可愛いよ、ファンファン」
もう何度も交わした、「生涯を共にする」誓いの口づけ。
その夜は、その熱い口づけに同じ熱さで応えた芳子だった。
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