第一話  蘇州夜曲

8/54
前へ
/157ページ
次へ
 その北京語が話せる下っ端の私に、秘書室長が厭な役目を押し付けたのだ。  「あなたは北京語が話せるから、恒星様のご命令が理解出来るでしょう」  背が高く冷たい風貌、恒星氏の信任熱い威圧感がタップリの四十代半ばの男。  それが秘書室長の(つつみ)文雄(ふみお)だ。(人呼んで、メデューサの文雄)  鋼の様なひと睨みで泣く子も黙らせる男は、弱い者いじめなどは日常茶飯事。  しかも、厳恒星の顔も碌に知らない私にふるなんて。  半年の間に恒星の姿を見たのは、わずかに三回。それも目の前を通り過ぎただけの顔見知り。これはあまりに横暴だ。パワハラだ!  情報が取れるからお仕事上は大歓迎だが、顔には怯えを貼り付けて泣いておいた。  「何人分ですか」、怯えている私を冷たく睨み付け、四人分だと指示した。  苛立たしそうな声が降ってくる。「グズグズしないで用意しなさい」、目の前で給湯室を指さした。  厭そうな素振りを装って、給湯室に向かった。  ワゴンに紅茶のカップとティーポットを乗せて、ノックの後で役員室へ入る。  案の定、役員室の中に居たのは恒星と谷崎隼人、東京オフィスの責任者の厳曹鳴だ。  そして予想外の存在が、泣いている麗佳。  谷崎隼人が、その身体を抱き締めて慰めているらしい。  首をひねる様な展開だが、面白い。  恒星が怒りを鎮めようと、見事な景観が広がる壁一面のガラス窓に歩み寄った。  こめかみに青筋が浮いている。  ワゴンの上で紅茶を淹れ乍ら、そっと四人の様子を窺った。  私を牽制するように、「サッサとお茶を入れて下がれ」、と振り返った恒星が北京語で命じた。  「解らないふりは止せ。僕のオフィスで使う人間の事は顔から名前、その他の全部を把握している」  「お前は北京語と英語が話せるはずだ」  恐れ入りました。  手早く紅茶を注ぐワタシを見ていたが、また視線を妹の麗佳に戻した。  麗佳は私と幾つも違わない歳だが、華奢な美人で、繊細なドレスデンの陶器の人形を思わせる。  男の保護本能を刺激するタイプだ。  
/157ページ

最初のコメントを投稿しよう!

194人が本棚に入れています
本棚に追加