第一話  蘇州夜曲

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 「許して、お兄様」  いきなりの上海語。  上海語は上海で話されている「呉」の方言の一種で、他の中国語と同じく声調言語だ。文法は北京語と変わらないが、発音が大幅に違う。北京語が話せる人も、上海語は理解が難しいと言われている。  私に聞かせないために、麗佳が上海語に切り替えたとすれば、盗み聞かない訳にはいかないじゃないか。(勿論、ワタシは潜入前に上海語もマスターした)  理解できないふりで、麗佳を見た。  ここは是非とも恒星に、ワタシは上海語が理解できないところを見せつけて置かねばならない。  恒星が窺うような視線を私に突き刺した。  「続けて紅茶を淹れろ」  わざわざ上海語でダメ出しまでした。  困惑しているふりで、紅茶を注ぐ手を止める。  「あのぉ~」  日本語で、戸惑いの声を発して置いた。  「いいよ、紅茶を入れて下がりなさい」  曹鳴が優しい声で取り成した。  そこから私は、壁紙と同じオフィスの備品と認識された。  私の前で飛び交う上海語。  如何やら麗佳は、極東連合会の島崎に襲われて卑猥な動画を撮られたらしい。  それをネタに恐喝された谷崎隼人が、中国マフィアに土地を売ったと言う事か。  そんな事が、厳グループの総帥である恒星の耳に入らない訳が無い。大急ぎで対処のために、恒星は日本に飛んで来た。  そこで運悪く私は紅茶を入れ終わり、カップも配り終わって、退室を余儀なくされた。  出る時に、そっと麗佳を盗み見る。  蒼ざめて微かに震えている麗佳を、痛々しいと思った。  極道どもが女を甚振る手口は、いつも惨い。 (後から考えたら、その同情が余計だった。私の素振りから恒星が、上海語を理解したことを推察したとは気づきもしなかった)  本当に、食えない奴!
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