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記憶の扉のパスワードを入力したつもりもないのに、ふと風に舞い込んだカレーの匂いや、病室からもれて聴こえるレッド・ツェッペリンのハイトーンが私の承認を待たずに扉を開いてしまう。
記憶の扉は待っているから、ずっとずっと寂しがってただ待っているから、ついつい半開きで粗相をしてしまうのは許してあげないとなんだけどね。
開いてしまった記憶の扉の中まで、糸を手繰って踏み込んで行くか、拒絶して逃げてしまうかその自由だけは堅持して、許されない悲しみと、許してやりたい喜びとを、両手で量って目方勝負の軍配を私は居丈高に振る。
ものいいなんか聞こえない。臆病なもんだな。そうそう、土俵の外で曖昧を楽しんでおればいいのだ。
「吉行さん、採血でーす」
「はい、はい」
軽い貧血を侮って病院を遠ざけた挙句がこの始末だ。もっと土俵際を見極めないといけなかったのは私の方だ。ごめん。
「私、貧血こじらせて入院してるのに、血採っちゃっていいんですか?」
「もう大丈夫って判断してのことですよ、勿論」
「ちゃんと血の量戻ったのかしら?」
「と思いますよ」
「そう」
アルコールの染み込んだ脱脂綿。注射器の鋭利。ああ、また記憶の扉が喜んで半開き。
「注射平気なんですね」
「はい、痛いのは好きかもしれない」
「あら、変わってる」
「そうですか? だって痛いの集めないと死ぬとき怖いじゃないですか、体慣らしておかないと」
「変わった人ですね、吉行さん。死ぬときってでも、痛いというのとは違うんじゃないかしら」
「そうなの」
「わかりませんけどね、まだ死んだことありませんから」
若い看護婦さんが採血を済ませて部屋を出ていく。私は目を閉じてベッドに仰向けに寝ている。
アルコールの匂いが鼻に残って記憶の扉がパタパタとだらしがない。でもね。窓のソメイヨシノがね。実をつけてるの。ごめんね保健室、また今度。誰も食べないさくらんぼ、だったあの頃。半開きの扉の奥で、緑の風が私を呼ぶ。消毒の匂いより、新緑に透けた命の香りの方が病院内では圧勝。消毒のアルコールは土俵下で擦りむいた膝小僧にでもどうぞ。
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