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田舎の小学校の正門に一本のソメイヨシノ。刺さった名前のカードがカタカナ表記だったせいでヨシノが漢字になれず、イントネーションを狂わせたけど、小学生の私にとって桜をただの桜でなく正式名称で認識していることは誇らしいことであった。
私が小学校を卒業したタイミングででっかい方の小学校と統合されて取り壊された。そのタイミングもまた、なにかの力が働いてのことだったとするなら、運命論者にビンタもできない。だから私は知らんぷりをする。運命の本は私とあなたに白紙で渡されるんだよって、中学の恩師が言ってた言葉を腐らせないために。
「見染められたね、ソメイヨシノだけに」
病室の窓に、ソメイヨシノの緑の葉、白雪姫を眠らせられそうな毒々しい色の実。記憶の扉を抜けて聞こえた母ちゃんの声。母ちゃんは今年も梅酒を作るだろうか、桜の記憶野で梅酒を想起し喉を鳴らすという反則行為を決めて、白いシーツを二回叩く。タップタップ。
「ミソメラレル?」
小学校六年生の私にはまだ馴染みのなかった色恋の用語はソメイヨシノのカタカナ表記と同様に、イントネーションを狂わせて、アニメの登場キャラクターを想起させた。
「藤子不二雄みたい」
「ちーがう。惚れられたってこと。好かれたんよ。ソメイヨシノに気に入られたんだ、それかソメイヨシノのせいにした誰かか」
私のお気に入りだったプーマのスニーカーに、一枚ずつの花びら。白を春風で染めた薄いピンクがヒラリヒラリ。
「母ちゃん入れた?」
「入れてない」
「だって、脱いだとき靴揃えるんで見たのに、絶対入ってなかったのに」
「見染められたな」
桜の季節だったから、あの日はそれ以上の言葉の捜索もなく、確か、そう、晩御飯はカレイの煮つけでデザートは桃の缶詰だった。母ちゃんは一個、私は三個。見てたテレビはウルルン滞在記。美人の女優さんがチヤホヤされていて、母ちゃんはちょっと不機嫌だった。
それから、ミソメラレルのイントネーションと同じように、私の日常に少しずつ狂いが混じりだしたのだ。
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