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病室の窓を開けてみる。
カーテンは風がなくても動けるはずだけど。だって知ってる。爺ちゃんの最後のとき、「いい風だなぁ」って爺ちゃん最期の言葉だったけど、窓閉まってたからな。病室で誰も何も言わなかったけど。あのなびいたカーテンが特別だった可能性はよこちょに置いといて。
目の高さすぐ近く、ミドリムシすら肉眼で捕捉できそうな、新緑が呼吸する音が聞こえてきそうな、繁りに繁った葉の中に、民族楽器のような実がニュートンリンゴを小馬鹿にするみたいにツンといる。
「追いついた初恋かぁ」
記憶の扉の一番奥。私と小泉君と、ソメイヨシノの気持ち。ごくごくありふれた初恋に、時間差と花の精のセンチな介入を伴なって特別な記憶。
放課後のドヴォルザークが夕景に吸われ、放送部の声がブツっと消えると、学校が冷たくなる。
すっかり、冷たくなってしまった学校で、私と小泉君はソメイヨシノの下にいた。
「すっかり忘れてた」
「僕は覚えてた。でも、誰だったのかまでは覚えてなかったから」
「ごめんなさい」
「ううん。一年生のことだもん、しょうがない」
「この木はずっと覚えてたんだね」
「呼んでくれたんだね」
「てっきりこの木に私、見染められたのかと思っちゃってた」
「見染められ?」
「うん、惚れられるってこと」
「相沢さん難しい言葉知ってるね」
「本が好きだから」
男の子と話すのに、母ちゃんを登場させたくなかったんだ、ごめん。
「味覚えてる?」
「覚えてる、美味しくなかったね」
「うん。でも、食べてくれて嬉しかった」
「どうして食べてみたの?」
「カッコつけたかったのかもしれない」
「よくないけどね」
「ね」
一年生の休み時間、みんなの鬼ごっこを抜けて一人、ソメイヨシノで木登りをする男子と実を食べた思い出。それだけの、一瞬の重なりと未熟で芽生えることのなかった恋心。見抜かれていたのか。ソメイヨシノ、よじ登られたのに、いいやつ。花の精、いいやつだったよ母ちゃん。
「来年、僕ら卒業したら切られちゃうんだってね」
「うん」
「もう、実も食べられないね」
「うん。桜の花は間に合うかもギリギリ」
「うん」
私と小泉君が枝ばっかりのソメイヨシノを見上げたら、私のプーマのスニーカーと、小泉君のパーカーのフードに二枚ずつの花びらが滑り込んだ。
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