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蝙蝠と刺繍
これは、私の一番古い記憶。
夕暮れ時のことだった。
広場の中央に立つ桜は、赤く染まる空を背景に、今が盛りと花びらを惜しげもなく散らしている。蜜でも吸うのか、薄紅色の花の周りを蝙蝠たちが纏わりつくように飛んでいた。
私は、桜の木の下でぼんやりと揺れる枝と蝙蝠を見上げていた。なぜ、幼子だった自分が一人でそんなところにいたのかは覚えていない。ただ、何かとても悲しいことがあって、家を飛び出したのだったような気がする。
行き場を失くし、途方に暮れていると、視界の端で赤い何かがさっと横切り、一匹の蝙蝠を捕まえた。
それは真っ赤な着物を着た女のひとだった。木の陰に隠れながらよく見ると、着物の裾や袖に蝙蝠の刺繍があって、まるで今の風景をそのまま写し取ったようだと思った。
女のひとの掌の中で、蝙蝠が暴れている。彼女がそれを袂に押し付けると、蝙蝠はたちまち厚みを失い、模様のひとつになってしまった。
完全に平面と化したのを見届けたところで、彼女は木陰で驚きのあまり声も出せないでいる私に気づいた。
「見たな」
唇がにぃ、と弧を描く。が、暗闇のように黒い瞳は全く笑っていない。
「素敵でしょ、この着物。これ、ちゃんと生きてるのよ」
ほら、と彼女が腕を振って見せると、刺繍の蝙蝠たちが羽搏き、布の上を自由に飛び回る。
好奇心を抑えきれず、袖の中をゆるりと飛んでいる一羽に、恐る恐る指先で触れた、その瞬間。
バサァッ!
風を切る音を立て、蝙蝠たちが肉の体を取り戻した。そして、着物から抜け出して茜空の向こうに飛び去ってしまった。
「あらあら、全部いなくなってしまったわね。残念」
いなくなった蝙蝠を惜しむように、彼女は無地になった袂に指を滑らす。そして、不味いことをしたと固まっている私を見て、世にも邪悪な笑みを浮かべた。
この時のおぞましい、赤い三日月のような口元が今でも脳裏に残っている。
「ねえ、このままじゃ淋しいから、お嬢ちゃんが代わりになってくれる?」
死人のような青白い手が伸ばされる前に、震える足を叱咤して一目散に我が家目掛けて駆け出した。
女のひとは追いかけて来ず、無事に家に帰り着くことが出来た。だが、今でも彼女が私のことを探しているような気がして、あの広場には近寄れないでいる。
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