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客間
「あなた!」
美輪子のカン高い声で昭三は我に返った。
「佐川さんもうすぐお見えになるじゃありませんか。着替えてくださいな。」
どうしてこう客間で煙草吸うんでしょうね、匂いが籠ってますよ。ああ灰が灰皿からこぼれてる。風が入って畳にも飛び散ってるじゃないですか。新しくしたばかりなのに。
ただでさえ吊り上がった眉を余計吊り上げて小言を言う美輪子は、墨色の結城紬に桜色の派手な名古屋帯のいでたち。紬はべっこう絣で花模様が織り込まれていた。
化粧も念入りで、丹念に塗り込まれた瞳の周りは匂いたつようだ。
あんな高そうな帯、一体いつ買ったんだ。帯留めはきっと着物と帯を合わせたより高いに違いないぞ。
ごめんごめんと小声で謝りながら、ドテラにパジャマ姿の昭三は灰皿と新聞を持って立ち上がる。
「まあーこれお客様用の座布団じゃないですか。汗じみができてる。使わないでってあれほど言ったじゃないの。何度言っても、もうっ。」
「今日はずいぶんめかしこんでるな。佐川が来る時はいつもそうだが」
一矢報いたつもりが、逆に火に油を注いだようなものだった。
「まあ、なんてこと言うの。私だってあなたに恥をかかさないように、これでも精一杯なんです。それをあなたは変な邪推して、佐川さんにも失礼だわ。いい加減にしてくださいな!」
美輪子はいっそうヒステリックにわめきたてる。
「着替えてくるよ」
昭三はすごすごと廊下に出る。大きな呼び鈴の音。
「あらっ、もうおいでになった。ちょっと約束の時間より早いですわね。」
美輪子はばたばたと昭三の前を通り過ぎる。
間男の顔がそんなに見たいか、と昭三は腹の底で毒づく。
若い嫁など貰うものじゃなかったのかもな。まあでも…。と昭三は片頬を上げて微笑む。
怖いもの知らずの身の程知らずが好き勝手にわめき散らし、愚かで大それた隠し事をして亭主を尻に敷いたつもりでいるのが可愛く思える時もあるのだ。
そのうちうんとやりこめてやる。
開け放った縁側から不意に風が入って、桜の香りを運んできた。
縁側に花びらが一つ落ちている。
代々の家主が丹精込めた庭に、そびえるように立つ万朶の桜。
あの下で、若くて美しい、あさはかな妻とその愛人を懲らしめる妄想が頭から離れない。
玄関は何故かひっそりとして美輪子も佐川も上がってこない。
昭三は佐川に、何と言って荒縄と緋毛氈を調達させようか考え始めた。
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