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『そんなに死にたいなら殺してあげるわよ、ほら手だしなさい。はやくほら』 お母さんはリストカットをする私にそう言って、刃物を向けて来た。静止の声を振り切って、私は玄関まで駈けた。靴を履くのももどかしく、踵を踏んでスニーカーを突っかけた。扉を勢いよく開け放つと、背後で奇声が聞こえた。私は無我夢中で走る。お母さんは今不安定なんだ。分かっていたのに。 十分は走っただろうか。団地から大分離れたところで、振り返ると、追いかけてきている様子はなかった。私は人心地着くと、近くの公園へと入った。  遊歩道を道なりに歩くと、景色が開けた。芝生の広場だった。この公園のシンボルである大きな池を見渡すことが出来る。それを取り囲むように並べられたベンチに腰掛ける。スマホで時間を見ると午後十時半。夥しい数のお母さんからの着信。通知を切って、目を逸らした。 小暗い夜の公園は、不安を煽る。草むらが風で鳴るだけで、飛び跳ねそうになる。……。お母さん、本当に私を殺すつもりだったのかな。平然と、刃物をこちらに近付けてきた。思い出すだけで身震いが止まらなくなる。    深呼吸して、優しく笑うお母さんを思い出そうとした。お母さん、私のお母さん。ちょっと神経質なところはあるけど、いつも私の話をちゃんと聞いてくれた。晴れた日に散歩に出かけると、見かけた花の名前を教えてくれた──そう、ちょうどこの公園だ。コデマリ、クレマチス、コスモス、クリスマスローズ。そして、桜だ。お母さんは桜の事が大好きだった。私だってそうだ。少し前までは二人で花見にだって行ったのだ。そうやって季節が巡っていった。 今は色々あって、不安定になっているだけ。本当のお母さんは優しい人だから、きっと明日になったら落ち着いている。そう自分に言い聞かせているうちに、段々体の震えは引いていった。
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