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「ねえ、待って。何の話なの」
「ぼくとあなたの話に決まってる。わからないふりとか、やめなよ」
彼は本気で怒っている様子だった。彼の話を聞きながら、恐ろしいほどの既視感に襲われていた。そして私は心からすまなく思う。
水盤の陰にたたずむ、涙にぬれた頬。どこからか紛れこんだ蝶が、水盤のふちで羽を休め水を飲んでいた。少しめくれていた寝着と、裸足のつま先。私は、ふっくらとした苔を踏み、中庭に降りる。
それらは、
私に、
我々に、
実際あったこと。
我々が何度目かの再会をはたしたのは、つい二週間前のことだった。
生徒たちをつれ、介護施設への慰問に訪れた時だ。彼は隣町に住んでいる青年で、老いた母親の車いすをおしていた。
博物館の神様を恨む気はない。
「また人間に生まれたい。人として普通の暮らしをしたい」という単純な願いが、こんなに厳しいものだなんて、我々にはわからなかったのだ。
一番最初の生が支配階級だったせいか、犬の時もそこそこ裕福な者に養われていたし、自由を夢見て生まれ変わった時も、そしてその次に人と犬として出会った時も、何の不自由もない日々をおくった。
つまり下々の者たちの本当の暮らしを知らずに、表層だけをみてその平凡さに憧れた。
私も彼も毎日擦りきれるほど働かないと、生活を維持できなかった。
今や、我々がかつて一国の王子で、家臣にかしずかれ何不自由なく暮らしていたなんて、自分たちですら信じられない。
「ごめん」
「いいよ、もう」
「でも、なにも殺さなくてもよくないかい……?」
「だから悪かったって謝ってるだろう?こっちだってショックだったんだ」
あの時、つまり二つ前の生では、私は自分の記憶をあいまいにしたかったのだ。
妾腹の子として生まれた。危うい立場で、大人たちの間を立ち回りながら成長した。何も期待されず、ただ刹那的な日々をおくっていた第一王子としての記憶。
我が腹違いの弟。
王位を継ぐもの。
ただ一人の愛おしいもの。
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