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誠二のもとに従軍令書が送られてきた。
幼いころ災害で肉親を失った誠二は親族の家でくらしていた。世話になっている身としてはできる限り親族の要望に応えたいという願いもあったので、お国のために尽くしてこいといわれてしまえば従軍する以外の道などない。しかし誠二はそのことを悲観していなかった。
送り出されたのは春真っ只中の、最高に美しい空の日だった。
「誠二さん。」
透き通った声で呼ばれ、誠二は道の脇に目を向けた。そこには袴姿の女性がいて、どこかの家の桜が舞い散り、彼女の周りを淡く彩っていた。
「ナノちゃんじゃないか。」誠二は体の向きを変えて笑いかけた。
「女学校の帰りかな?」
尋ねると、彼女は首を横にふった。もじもじしながら誠二を見る顔は、ほんのり桜色に染まっていた。
「遠くにいってしまうんでしょう。」
ナノは両の手のひらを差し出した。そこには飴色の万年筆が乗っている。
「お手紙を書いてください。そしてきっと帰ってらして……。」
誠二は黙ってその万年筆と、ナノの綺麗なうなじを見下ろした。誠二はたまらなくなった。
ナノが差し出した万年筆は、女学校の入学祝いに誠二が送ったものだった。その後送られてきたお礼の手紙は、今も大切にしまってある。便箋に香水が吹きかけてあり、触れた指先にしとやかな香りが染み付いたっけ___。
そうか。誠二は目が覚めたような思いがした。
ナノはもう大人だ。どうして今になって気がついてしまったのだろう。
ナノに手紙を書くことはない。
戦争から無傷で帰ってくる人間のことを悪く思っているらしい親族の前に、再び生きて姿を見せるつもりは無かった。
誠二はひとつの覚悟をもってナノと向き合う。
「ナノちゃんは桜が好きかい?」
誠二がした質問に一瞬のあいだきょとんとし、ナノは「はい。」と言った。
「僕も好きだ。可愛らしいのに散り際がいさぎよいところとかがね。でも誰にもそれを言ったことがない。僕が桜を好きだということを、誰も知らないんだ。だから君に覚えていてほしい。」
誠二は手を伸ばして、桜の小枝を折った。花のついた小枝を、優しくナノの髪に挿した。
「お元気で。」
誠二はその場をあとにした。その時に見たナノの顔を、誠二は一生忘れないだろうと思った。哀しくて、いとしい顔だった。誠二を誰より思う顔だった。
船が出るときになって、誠二はようやく街を振り返った。ちょうど桜が満開の時期らしい。街が鮮やかに咲き誇っていた。
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