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作業どころではない。アトリエに着いて、すぐにそう感じた。屋根から滴り落ちる水滴に、強い風に煽られる水。大事な作品を濡らすわけにはいかないーーもっとも、もう濡れているような気もするし、そもそも今日は作業なんて気分でもないが。毎日の習慣がそうさせたのか、それとも誰かに操られていたのか、何故か僕はアトリエにたどり着いた。
たどり着いてしまった。
来てしまったからには帰りは一時間後。何をすることもなく反対側のホームを眺める。彼女が立っていた場所。今もこの目に鮮明に映るのに、色が見えないような気がした。元々彼女のモノクロに惹かれたのではあるが、それは黒と白の絶妙なコントラストが織り成す作品であり、芸術だった。そして何よりも際立つのは瞳の深い黒。それが見えない。一体彼女はどんな黒色の瞳をしていたのだろう。
うすぼんやりとした思考にのまれながら、ただ虚無を過ごした。彼女だけを見つめて。彼女だけに焦がれて。今考えると、これも意味のある時間だったのかもしれない。
君を、見つけるために。
彼女に捧げた一時間が過ぎようとしていた。ゆっくりと重たい腰をあげ、反対側のホームへと足を運ぶ。帰るときは、自然と彼女が立っていた場所を踏み締めるのが恒例になっていた。ある一種の儀式のようなものだったが、もう必要ないのかもしれない。ここに立ち、顔をあげ、ただ一点を見つめる。彼女がどんな気持ちでここにいたのか、想いを馳せる。そんな毎日も、今日で終わりにしよう。
僕の描いたキャンバスを、一歩一歩、歩いていく。モノクロの彼女を想い、視線を前に。
時が、
止まった。
つい先ほどまで僕が立っていた位置。そこに、彼女はいた。一ヶ月も焦がれた、モノクロを纏って。ほんの数秒前までそこにいた僕を蔑むかのように、彼女はあまりにも違う存在だった。描いていた世界がどんなに陳腐だったかを強く思い知る。彼女はこんなにも、深く、美しい。金縛りに合ったかのように、僕はまた動けずにいた。彼女は凛と前を見据えているが、その目に何も映してはいない。そんな佇まいに見蕩れる。
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