1 秋終わり

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「ユリさん診察室にお入りください」  古語の単語表を広げる間もなく名前を呼ばれた。看護師に呼ばれた診察の扉を引いて入った。パソコンに向かって打ち込んでいる。 「ユリさん、お久しぶりです。高校生活は順調?」  マスク越しに笑う女医――同級生の母親は椅子に座るよう勧めながら近況を聞いてきた。「はい」ユリがそう答えるかたわら女医はワクチン接種の準備を進めている。 「この台に右手を腕まくりして乗せて」そういわれ右手の長そでをまくって台に乗せた。 「沁みるようだったら言って」  注射を指すところをアルコールで濡らした布で拭いた。そして、小瓶に注射器を刺して中の溶液を移した。 「ちくっとするからね」  白い腕に注射器が刺され薬剤の液体が入ってくる。心臓の鼓動が早まる。息苦しい。 「はい、終わり。気持ち悪くない?」  注射したところをガーゼで塞がれ女医のいたわる視線が刺さる。首を横に振って、振り切った。受付で支払いを済ませてバスに揺られて帰った。 「遅い。パートに行く時間だから、帰って来るまでそれを済ませておくこと」  家に帰るや母はあわただしく準備を進めている。机に置かれている菓子パンをつまみながら母親が付箋を貼った問題集の範囲を解き始めた。仕事に行った母親がいなくなった居間には、時を進める時計の針の音とミカのペンの走る音しか聞こえない。母の進めた高校から母の希望する英語系の大学に入るための勉強。注射のように自分の中に刺さり、ひたひたと積もるなにか。しかもそれは毎日入ってくる。変わらない日々が続いた。翌週ミカは道に半ば迷ったのか帰りが思ったより遅かった。それを姉の私がだらしないと叱咤された。もうそれにも慣れた。
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