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赤信号が青になっても風待は走り出さなかった。
青が赤になり、青が赤になり、また青になっても信号機の横に突っ立ったまま、部長にかけられた言葉を反芻していた。
黙礼して応接室を出ると、突き当りの窓から差し込む薄黄色い光がゆらいで見えた。
廊下脇の喫煙コーナーから紫煙が上がっている。
ふわっと無防備に煙の筋に分け入ると、待っていたように鈴木の声がとんだ。
「風待君はなんだったの?」
部長からの思いがけない誘いに戸惑っていた風待は、うっかり無視するのを忘れた。
「職人になってみないかって」
自分の声が遠くに聞こえる。
他人から実績を買われるという体験の薄い風待には、部長の評価をどう受け取っていいか、よくわからなかった。
持て余していると言ってもいい。
抱えきれないほど大きな綿菓子をポンと渡されたような気分だった。
人の人事まで気になるのか、自分も部長に呼ばれているはずなのに、鈴木は言葉をつづけた。
「へぇ、それっていい話?」
いい話なのは間違いない。しかもかかる費用は会社持ちでいいという。
「ふぅん、じゃあバイトじゃなくなるんだぁ」
「いや、それは……まだ」
「え、なんで?いい話なんでしょそれ。なんで断ることあんの?なんで?」
思っていた答えと違ったことにさらに好奇心を掻き立てられたのか、鈴木はがぜん話にくいつきはじめた。
「やりたいことが……」
はっと気を引き締めて途中から口を閉じても、一旦出た言葉は元には戻らない。
失敗した。鈴木をキャッチボールの壁のように思って喋りすぎた。こいつには耳も目も、人一倍よく回る口もあるのだ。
鈴木はますます饒舌になって、自分が優位に立てる分野に風待を引きずり込もうとした。
「やりたいことって、なんか夢でもあるの?十九ってさぁ、高卒でしょ?学歴無いんだったらさぁ、夢なんか追わないで手に職つけた方がいいって」
知ったらしい自分の言葉に酔うように、一人何やらうなずいている。
真ん中分けのふわっと先のカールした長めの前髪も、くりっとしすぎな二重瞼も、煙草の根元をちょいとつまむような仕草まで嫌らしい。いくらぼんやりしていたとしても、なんでこんな男にやすやすと大事なことを喋ってしまったのか。
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