見知らぬ夜の街で

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家事をするのもおっくうで、部屋の隅には埃がたまり、流し台には洗い物がたまり、洗濯機には洗濯物がたまる。 我慢出来るギリギリまで、我慢して、気力をふりしぼって、「ある日」それを片づける。 そして、翌日は、力を使い果たした抜け殻のようになり、薬で睡眠を貪る。 その繰り返し。 得意だった料理も、全くする気になれない。 夜、近所のスーパーの総菜コーナーが、値下げになるタイミングを狙って出かけるのだけれど、つい、甘い物も買ってしまう。 甘い物がもたらす快感を、断ち切ることが出来ないのだ。 動かない上に、高カロリーの偏食。 「食べ」て「寝る」だけの生活。 週に一度の心療内科の診察日、ため息をつきながら、誰よりも長いつきあいとなった男性とも言える、担当医師が言った。 「太りすぎです」 そう言われても、寧音は、何とも思わなかった。 感性だとか、向上心だとか、かつて寧音を輝かせていた物を抱き続ける事に疲れ果てていたのだ。 鬱病になってからの2年間は、何をしても涙が出て仕方がなかったし、何とか、もとの生活に戻ろうとする気持ちがあった。 頭では、かつての仕事に復帰する事を望みながら、沈み込む気持ちと、最低限の生活活動しかしなくなった体とのジレンマに、苦悩する日々だった。 それを乗り越える為に必要だったのは、鬱病の薬でも、心の癒やしでも、カウンセリングでもなく、「現実」を自分で認めさせる事だった。 太陽に近づきすぎたイカロスは、地に落ちて死んだ。 寧音は、自分以上の事をしようとして、地に落ちたのだ。 地面を這いずりまわり、壊れた体と心を支える為に選んだのは、「海」だった。 それは、「輝く空」でも「実りの土」でもない、「惰性の海」。 そこに、「美しいもの」は何も無かった。 美容院にも、ネイルサロンにも、エステサロンに行くお金も無ければ、お化粧品を買うお金も無い。 ぼさぼさのロングヘアーを一つに結び、化粧もしなくなった。 5枚で1980円の、おへそまで隠れるショーツは、刺繍もレースもついていない。 脂肪を蓄えすぎた背中に食い込むのが嫌で、ブラジャーをしなくなったせいで、乳房は引力の法則を証明してみせた。 妊婦のようなお腹が苦しいので、体のラインの出ない、だぼっとした安いノースリーブのワンピースが、服装のメインだ。 肌寒くなると、やはり安い通販で購入したカーデガンを羽織り、もっと寒くなると、ユニクロのメンズサイズのフリースを羽織る。 病気のせいか、集中力が続かない。 あんなに好きだった、映画や本や漫画を楽しむ事が出来ない。 好きな絵を楽しむ為に、趣味の一つだった美術館巡りをする気にもなれない。 あれほど好きだった画家の画集を見ても、何の感情も沸いてこない。 暇にまかせて、テレビを見ても、バラエティー番組で笑う事も出来ないし、長時間の視聴が辛い。 「笑う」とか「感動する」という感性が、マヒしてしまっていた。 そうしなければ、寧音の心は、現実の厳しさに、耐えられなかったのかもしれない。 太っていく体と裏腹に、心はどんどんやせ細っていく。 パソコンでネットサーフィンをし、オークションの売れ残りをチェックし、レズビアンサイトの募集掲示板をチェックして、1日が終わる。 「惰性の海」に沈むために、美しさも、若さも、覇気も手放した寧音には、もう何も残っていないと思えた。 自らを殺める気力さえも・・・・・ 「子供の頃、何が楽しかったですか?」 ある診察日に、心療内科の医師が尋ねた。 その医師は寧音と同じ年で、心を病んでいても、まだ美しかった頃の寧音を知っていた。 なんとか、「惰性の海」に沈んだ寧音を、引き上げたいと想っていたのだろう。 寧音は、医師の質問の意図を深く考える事無く、 「本を読むのが好きでした」 と答えた。 今、本を読む事が辛い事は、医師も知っていた。 「他には?」 寧音は少し考えた。 夢中になったもの・・・・・一つ年上の、先輩の顔が頭を過ぎる。 あの日々が、寧音のこれまでで、一番幸せな時代だったかもしれない。 だけど、彼女との事を話すことは、その美しい思い出を汚されそうで、言う事は出来なかった。 「詩を・・詩を綴るのが好きでした。短歌を詠む事も。あと、小説も書いていました。本を読むだけでは物足らなくて・・」 「それは、家に帰ってからですか?」 「いえ、授業中です・・・」 そう答えて、寧音は、少しだけ苦笑した。 実家には、授業中、それらを綴ったノートが残っている。 「小説を書くのは、今はしんどいと想いますけれど、詩を書いてみたらどうでしょう?」 「はぁ・・」 寧音は、心ここにあらずというような表情で、返事をした。 確かに、文章や詩を綴るのは楽しかった。 だけど、家に帰ってから、書いたことは無かった。 あれは、一種の「現実逃避」だったのかもしれないと、寧音は過去の自分を分析していた。 「勉強」という現実から、逃避するために、わき上がる妄想を、思いつくまま書いていただけのもので、自分と先輩との恋愛がベースとなっていた。 二人の関係をなぞるような作業は、心地良かったけれど、「作品」と呼べるような代物では無かった。 それを思い出した時、何かが、ぽこっと、大きな泡となって、心の奥からわき上がったような感覚を覚えた。 何? 帰宅して、寧音は、パソコンの前に座り、「一太郎」のアイコンをクリックした。 少し、考えて、昔付き合った女性との恋愛を思い出しながら、文章を綴ってみた。 小説というよりも、エッセイだったが、意外とスムーズに、文章を綴る事が出来た。 少しだけ、「楽しい」に似たような感覚が、残った。 書ける・・・・・・ 寧音は、ちょっと自分に驚いた。 本も漫画も読めないのは、もしかしたら、病気のせいだけではなく、今の自分が読みたいと思えるものが無いだけかもしれない。 そう思い、ネットの小説投稿サイトを検索して、人気の高い作品を読み始めたが、続かない。 面白くない。 自分が書いた、エッセイのようなものの方が、面白い気がした。 何度も、昔の恋人の話を読み返しているうちに、段々と、「恋」をしていた頃の思い出と、色々な感情がわき上がってくるのを感じた。 悪く無い・・・ 時間はたっぷりある。 集中は、やっぱり、長くは続かなかったけれど、短編小説を、いくつか書くことが出来た。 それを、SNSの日記に、連載で投稿することを思いついた。 レズビアンのコミュニティに登録し、レズビアン小説を書いている事を自己紹介に入れた。 軽い気持ちだった。 翌朝、SNSを立ち上がると、コメントがいくつか入っていた。 寧音は、何度もそのコメントを読み返した。 どれも、寧音の小説に、好意的なコメントだった。 「こういうの、読みたいと想っていました」というコメントに、寧音は、すぐに、連載の続きを、貼り付けた。 コメントの返事にコメントを入れると、またコメントが入る。 リアルで人と会うのは嫌だったが、ネット上で絡む人が増えるのは、単純に嬉しかった。 コメントの返事をしているうちに、メッセージのやり取りをする人が、数人出来た。 その中の一人から、 「ツイッターで、小説のPRをしてはどうですか?」 と提案された。 「ヒキコモリのメンタル系」という深海魚になっていた寧音にとって、ツイッターと、SNSと小説は、楽しいネットの海底散歩のようになっていった。 やめようと想えば、いつでもやめられる脆い繋がりではあったけれど、そのネット「散歩」の間は、現実を忘れられる。
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