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見知らぬ夜の街で
とうとう、来てしまった・・・・
12年ぶりの東京は、桜の開花が例年よりも10日も早く、日中は初夏のような暑さだった。
陽が落ちても、日中の暑さが残っていて、寧音の肌は、少し汗ばんでいた。
その汗は、暑さのせいだけではないようだった。
満員電車から弾かれるようにホームに降り立ち、小さな駅の改札を抜けると、夜の濃さに溶け込んだ、見知らぬ街の風景が広がる。
待ち合わせに指定された、駅前のコンビニはすぐにわかった。
そのコンビニの明かりの前で、手にしたスマホを見ている、背の高い女性の姿が見えた。
それが、ノアだと、一目でわかった。
ツイッターの画像そのままの、まるで人形のように整った顔立ちと、闇夜にとけこむような黒髪。
シンプルな、黒のパーカーとレギンス姿なのに、否応なしに人の目を惹きつけるオーラを醸し出している。
とても、風俗嬢には見えない。
こんなに若くて美しい女性が、50才を過ぎた中年太りの私を抱いてくれるの?
その女性が風俗嬢という事も、自分を抱いてくれるという事も、実は自分が勝手に作り上げた妄想なのでは・・・と思ってしまったくらいだ。
もしかしたら、これは、夢だろうか?
本当に、人間?????
期待と緊張が、体の中で膨れ上がり、今にも破裂しそうだ。
自分の疑惑を確かめるかのように、足を踏み出し、ゆっくりとその女性に歩みよる。
「・・・・・・ノアさんですか?」
そう、問いかけた声は、いつもの寧音の声よりも、少しトーンが低かった。
かつて、営業の仕事をしていた時に、初めてアポイントが取れた会社に出向き、挨拶を交わした時の、あの緊張感を思い出していた。
うつむいてスマホの画面を見ていた女性が顔を上げ、寧音の姿を確認すると、すぐに微笑みながら答えた。
「寧音さん?」
しゃべった!
間違いない、人間だ。
そして、ノアさん本人だ。
その声、その笑顔が、自分に向けられているのだという喜びが、山奥にある原水の湧き水のように、心の奥底からわき上がる。
心の中で抱き続けてきた愛しい女性の姿とノアが溶け合い、その感動の波動が、寧音の全身へと広がっていく。
とうとう、逢えたんだ・・・・
「はい、寧音です。初めまして。」
ノアは、大きくて澄んだ瞳をしていた。
臆すること無く寧音の目を見つめながら、
「緊張してますか?」
と尋ねた。
「はい」
寧音は、はにかみながら、そう答えた。
寧音の中で、出会いの感動の波動が、緊張とときめきに変わっていく。
そのときめきはピアノの演奏で、鼓動はメトロノーム。
メトロノームの、テンポが速くなる。
「行きましょうか」
ノアは、するりと、手を絡める『恋人つなぎ』をして、寧音を誘導し始めた。
ヒールを履いた寧音よりも、ノアの方が背が高く、そして、ほっそらとしていた。
そのスタイルも、寧音がノアを指名した理由の一つだった。
自分よりも背が高い女性と、手を繋いで歩いたのは、20年以上前の事だ。
そんな記憶が古ければ古いほど、寧音は自分の年齢を思い知らされるようで、惨めな気持ちに傾いてしまう。
そんな寧音の気持ちを察するかのように、ノアは寧音の目をのぞき込み、微笑みかける。
まるで、大切な恋人に、微笑みかけるかのように・・
寧音のふくよかな手と違い、骨の感触が伝わるような細い指は、ややひんやりとしていたけれど、すぐに、寧音のぬくもりを肌に移し取った
「手、暖かいですね・・まだ、緊張してますか?」
ノアが、再び尋ねた。
もし自分に娘が居たとしたら、その娘の年齢よりもノアの方が若い。
それほど若いノアと恋人つなぎをしながら歩いている姿が、とても不自然な事に思えて、寧音は恥ずかしくなり、思わず、顔をそむけた。
「恥ずかしいんですね、可愛い!こっち、見て下さいよ」
笑いを含んだような声で、ノアが、寧音の顔をのぞき込む。
整いすぎるほど美しいその顔は、今は、悪戯っ子のような、無邪気な笑顔になっていた。
寧音は、今にも息が詰まってしまいそうだった。
『可愛い』などという表現が、今の自分に、どれほど不釣り合いかという事を、寧音自身、解りすぎるほど解っていた。
人気の無い夜の街を手を繋いで歩いている二人の姿が、とても不自然なものだという事も。
寧音は、もう、かつての美貌や若さを持ち合わせてはいないのだ。
あれほど自分に自信を持っていた頃に、こうしてノアと歩けていたら、パンプスの足取りは、ずっと軽やかだったに違いない。
だけど、そんな劣等感を上回る期待を込めて、寧音はノアの手を握りしめた。
「荷物、持ちますよ」
ノアがそう言い、寧音の荷物を手を繋いでいるのと反対側の手で受け取り、肩にかけた。
「重いでしょう?大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
ふわふわとした、危うい感覚は、荷物の重さが無くなっただけではない。
寧音は、舞い上がっているのだ。
ツイッターでノアを初めて見た時に感じた、小さな芽が、数ヶ月をかけて育ち、今、その花が咲こうとしていると思うと、とても平常心ではいられない。
寧音は、この瞬間までの、自分でも信じられない行動を思い出していた。
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