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そんな事を考えているうちに、チョコレートのような甘い香りがふわりと漂ってきた。それはこんな状態でも気味が悪いくらい鼻腔をくすぐり、気分を一転させる。
先程まであんなに思考を巡らせていたのに、もう頭の中はその甘さでいっぱいになってしまった。
香りを引き連れて奥の部屋から出てきた彼の手には一杯のココアが入ったマグカップを握っていた。
『ココアは飲めるだろう?ここにお客様が来るのは珍しいし、時間が許す限りいると良い。』
彼は迷わず私の目の前のカウンターにそれを置いて、自分は飲んでいた珈琲に口をつけた。つられて私も白いマグカップにたっぷりと淹れられた温かいココアを口に含むと、甘い香りが鼻を抜け、口いっぱいミルクに包まれたかのようなココアのマイルドでいて深い甘さが広がった。
当然のようにそれは美味しく……どこか懐かしいその味に、何故か一滴の涙がカップに落ちた。この味を、私は知っているんだ。
それは全然嫌な記憶でも悲しい記憶でもなかったのだけれど、忘れていた事に涙したのかもしれない。
この人を……トワを、この不可解な街をやっぱり私は初めから知っていたんだ。
その衝撃に私はココアの入ったマグカップを置き、勢いよく立ちあがった。
『ねえあ、トワっ!』
勢いよく立ちあがったせいか、自分でも驚くほど間抜けた声が出た。
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