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ここは、普通のカフェではない。
街の大通りから小道へ入り、更に迷路のような路地裏を右回りにぐるぐると三回、決まった順番で歩く。
そうして、一度左側にある廃ビルにくるりと背を向ける。
何かのお店だったのか、古びたシャッターを見上げてから目を瞑り、そのまま振り返った。
瞳を開けて、そこに現れるのは。
小さなカフェ──『グリム』。
少し年季を感じる色褪せた煉瓦の壁に大きな窓。
深い緑のオーニングが丸いフォルムで扉と窓の上部を覆っているのが可愛らしい。
金のノブを捻ると、軽やかな、それでいて何処か切なくも感じる不思議な音色で鐘が鳴った。
入って直ぐに鼻を擽ったのは、コーヒーの深い香りと焼けたパンの香ばしい臭いだった。
カウンターの中に居た若いマスターが、こちらを見て淡く笑んだ。青年といって良い程だった。
「いらっしゃいませ。またお越しになられたんですね」
柔らかく低めの声は、歌うように滑らかだ。ちょうどヴァイオリンに重なるそれは、心地良い。
店内はがらんとしていたが寂れた様子などはないことから、単に空いているだけなのだと分かる。
誰の姿も見えないから、客は私だけのようだ。
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