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「老後までとっておかないんですか?」
私の母親はいつも老後の心配をしている。
ひとみさんは、頬杖をついた。
「老後があるかなんて、わかんないでしょう。生きているうちに人生は愉しまないと」
私は、首をかしげた。
「僕の両親、老後らしい老後がなかったからね」
ひとみさんは、片方の眉をあげて、冗談のように言ったけれど、笑えなかった。ご両親の分まで、人生を愉しもうとしているのかもしれない。
「絵を描くことが、ひとみさんの愉しみなんですか?」
「学生時代はたくさん絵が描けたのに、社会人になったら全然時間がなくなって。仕事が嫌いな方でもなかったけど、働かなくても当分困らないなあと思ったら、絵が無性に描きたくなったんだよね。実は、今日から描きたい物を探す旅に出ようと思ってたんだ」
私は、一瞬思考が停止した。瞬きもせずに、ひとみさんを見ていた。ひとみさんが、私をみて不思議そうな顔をした。
断ったら、旅に出てしまうんだろうか。 残り少なくなった自分のコーヒーをみて、気持ちがさらに落ち込む。
「ちょっと質問いい?」
私は頷いた。
「君は、僕のことを前から知ってるみたいだけど、いつ頃から?」
「一年くらい前です」
思い出そうとしているのか、少し眉根を寄せて私の顔をみていた。
「僕はどうして知らなかったんだろう」
バイトに入った平日の朝には、必ず会っていたのに哀しくなる。
「よほど、余裕がなかったんだろうな」
ひとみさんは、マグカップのコーヒーを飲み干した。
「ところで、引き受けてくれるよね?」
少しまじめな顔でそう言った。
「あの、どうして、私なんですか?」
目を細めた。
「『スマイル0円』に革命を起こしたいって思って」
私は、意味がわからなくて何度も瞬きをした。
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