第一章 相対取引(あいたいとりひき)

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 ワンルームの扉をあけて中に入った途端に、なんだか、力が抜けて、靴も脱がずに廊下に寝そべった。フローリングの床が冷たい。 「ベートーヴェンさんの名前、ひとみさんって言うのかあ」  髪型も変わっていたし、今日はずっと笑顔だったから、もう、ベートーヴェンさんって感じじゃない。  仰向けに転がり直す。  天井を眺めながら、ひとみさんの顔を思い浮かべた。  名前で呼ばれた時の声がよみがえって、また頬が熱くなった。  私は、バッグからスマホを取り出した。Twitterの画面をひらいて文字を打ち込む。 『会いたかった人に会えた』  呟いた。 『講義の後、会う約束した』  呟く。 『あー何着ていこう』  大問題だった。私は寝転がったまま靴を脱ぎ捨てた。  体育の授業でやらされた変形ダッシュみたいに急いで起き上がると、クローゼットまで走った。  服に迷いすぎて、講義に遅れそうになった。昼食もとれなかったけれど、胸がいっぱいで食欲もないから、平気だ。  友達の美佐子が席をとっておいてくれたので、助かる。  美佐子は、私をみるなり吹き出した。 「サイドテールとかうける。シュシュなんか持ってたんだ」  いつも黒ゴムで後ろにひとつにまとめている。服は、買いに行く時間もないし、持っている中ではましな服を選んだ。
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