第一章 相対取引(あいたいとりひき)

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 人見さんと降りた駅はオフィス街だった。  高層ビルに並ぶほとんどの窓に明かりがついている。 「辞める前は、この時間まだ外にいたかな」  七時もまわって、真っ暗なのに大変だ。 「終値(おわりね)出た時点で帰れたら楽だったのにな」  人見さんは私を見ずにそう言った。多分、独り言だと思った。 「マーケット分析は好きだったけどね」  人見さんは私を見た。 「早く食べて帰ろう」  何もかもが物珍しい。タクシーがこんなにたくさん走っているのを見たことがなかった。 「いろんなタクシーがあるんですね」 「そういう風に考えたことなかったな」  すぐに焼き鳥屋が見えた。  お店の外に漏れ出した香りだけで、空腹を感じ始めた。    考えたら、昼食をとっていなかった。  暖簾をくぐって店に入る。中には、女の人が多かった。おじさんが行くお店と思い込んでいた。タレの香りが充満していて、私は唾を飲み込んだ。 「カウンターで良いよね」 「はい」  人見さんについて行って同じようにする。  目の前で、焼いている。水分が蒸発する音まで美味しそうだ。うっすらと煙が上がる。私は焼いている人の手元にみとれた。  人見さんが「適当に頼むね」と言った。頷いた。  しばらくしたら、同じ歳くらいの女の子が飲み物を運んできた。  ビールジョッキに白い液体と氷が入っている。人見さんはビールを頼んだようだ。 「それじゃあ、契約成立を祝って乾杯」  グラスの当たる音と、氷が揺れる音が綺麗だった。  ひと口飲む。人見さんを見た。 「飲みやすいでしょう」  カルピスの味の奥にかすかな苦みがあるだけで、美味しかった。  焼き鳥もとても美味しかった。  私は店を出る頃には、フワフワの良い気分を味わっていた。夜の冷たい空気が頬に当たって気持ちがいい。 「人見さん」  名前を呼んでみる。 「何?」 「人見さーん」 「一杯で酔っ払った?」  これが酔っ払うという感覚なのか。酔っているんなら言っても大丈夫かと思った。 「ずーっと、人見さんが来てくれるの待ってました」 「え?」 「だから今日はすごく嬉しかったです」  大きく手を広げて夜の空気を吸い込む。私は立ち止まる。
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